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HOME > 読書推進活動 > 「読書エッセイ」入選作品

読書エッセイ 入選作品

 
第7回入選作品(敬称略)
   
家の光読書エッセイ賞 賞金30万円
 
連なる黒アリの箱          マハット・ラリット(奈良県)
   
優秀賞 賞金各10万円
 
もう少し 及川三治(岩手県) 
工場内文庫繁盛してまーす! 藤田昭夫(東京都)
桜桃記念日 野村伸江(愛知県)
   
佳作 賞金各3万円
 
寿限無(じゅげむ)の思い出 森田文(埼玉県)
親は、本、大好き!さて、その子供たちは…? 佐藤まゆみ(神奈川県)
ディッセンバーリード  八木幸次(静岡県)
感謝と共に                   湊照子(京都府)
蚊帳の中のランプ             玻名城千代子(大阪府)
三十年目の空想会話 成宮敬人(高知県)
人生変わるよ!! 齊藤洋子(イギリス)

第3回第4回第5回第6回の入選作品についてはリンク先を参照してください

家の光読書エッセイ賞

連なる黒アリの箱 マハット・ラリット・30歳・奈良県
 「今日は持ってきてくれるかな」。ヒマラヤの国のある山奥の村で、夕暮れに山の向こうからやってくる父親をまだかまだかと首を長くして待っていた私。25年以上も前のことなのに昨日のように覚えている。「土産になにか欲しいか」と町へ出かける父親に本を頼んでいた。姉は折角だからお菓子とかを頼めばいいのにと私を笑う。学校というものが存在しない村の5歳の子供がお菓子より本を欲しがることは確かに珍しいことだった。
 結局、その日父はこなかった。とても楽しみにしていた私はその晩眠れなかった。布団に横たわり様々な思いが頭を過ぎらせていた。村長さんの家で同じ年の娘さんが読んでいた青い表紙の四角いもの。中には花や動物、乗り物に黒い小さな虫みたいな絵が描いてあった。床に座り両膝の上で広げられていたその四角い箱のようなものを私はちらっと横から見てしまったのだった。しかし、じっと見られていることに気付いた娘はわざと見えないように背中を私の方へ向けた。あの黒いアリが並んでいるようなものは「なんだろう」と知りたくなった。
 私の村にも学校ができる噂はあったが、学校ができたとしても勉強する者はいなかった。数え切れないほどの村の子供には家畜の放牧や幼い兄弟の面倒見などの家事が待っていた。それに、学費や教材だって安くなかったし。「学校で勉強する」という贅沢に村の子供達は恵まれていなかった。
 2日遅れて父は帰ってきた。右肩に背負っていた狐色に褪せた白い面の鞄。本が欲しくて父のそばに寄り添った。父は「はい、ビスケット!」と袋を取り出した。
 父の鞄からは調味料やスパイス、洗剤に野菜の種などが魔法のように次から次と出てきた。「次は私の本かな」。待ちきれない私。ついに狐色の鞄は底をついた。「お父さん、本は?」。ぽかんとした顔をする父。「あ、ごめん、忘れちゃった」。がっかりした私は大声で泣きたくなった。
 結局、本を読むことができなかった。悲しさを紛らわせようと遠く霞んだ谷の方にある町の学校を細い瞳で毎日のように眺めていた。自給自足の暮らしにお金の余裕もないことはわかっていた。だけど、人間は「無理」というものを夢見るのかもしれない。私もその頃から学校へ行きたい、そしてたくさんの本を見てあのアリのような黒い文字を分かりたいと考えるようになった。本を見せてもらいたくて用事もないのに村長の家に幾度も通った。そんな私の気持ちを父は悟っていたようで、ある日、谷を眺めていた私を両腕に抱いてこう言ってくれた。「ララは勉強したいのだね?」
 そして、1年後の秋に父は私を学校へ入れることを決めた。そうなると、通うことが難しく親元を離れなければならない。母は「ララはまだ小さい」と反対した。村の人達も「娘を学校に入れてなにになるんだ」と驚いた。いずれ嫁に行く娘を勉強させておいても無駄だというのだ。でも、父は「この子は本を読みたいらしい」と私を学校に入れてくれた。
 本を見たくて学校へ通うことになった私。初めて手にした本は国語の本だった。絵の他に写真や言葉が書かれていた。黒板でア、イ、ウと文字を教えてもらった私は暫らく経つと「本、ノート、ペン」などと単語を読め、やがて自分の名前を読み書きできるようにもなった。あの連なる黒いアリの正体は文字だったと分かった時は、それまでになかった不思 議な喜びを感じたのだった。
 こうして本に出合えた私はその知恵の世界 に引き込まれ、学校のない村出身でありなが ら初めての高卒の女の子となった。その後、 看護師になり、家族の生活に大いに役にたっ た。そして看護の研修で初めての外国、日本 にくることまでできた。
 本に出合えたことで私は自分を知り、周り を知り世界を知ることができた。時々故郷に 戻ることがある。25年前の村の子供達はも う大人にはなっている。出稼ぎに行った子供 からの手紙を持ってきて「これ読んでくれな いか」と頼んでくる。そして、私の周りに座りながら、文字を読むことの気持ちよさや外国の暮らしなど沢山の質問をしてくる。その時皆のまなざしが間違いなく「うらやましいな〜」と言っているような気がするのだ。
 今、私は本屋のすぐ近くの家に住んでいる。小さい本屋だけどとても居心地が良いところだ。週末になると3歳になる双子の子供を連れて行く。彼らもまたテレビやゲームより本が好きな子供だ。寝る前に「ママ、これ読んで!」と次々に本を持ってくる。そして枕にして眠る。独りで見ている時もある。とても真剣なその表情を少し遠くから見つめると、「将来医者にでも、教師にでも、科学者にでもなってくれるのかもしれない」と想像してしまうのだ。でも、私としては本好きな人間にさえなってくれればそれで十分だが。

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優秀賞

もう少し
及川 三治・68歳・岩手県
「ねえ、先生。本ばかり読んでいるというのは、結局怠け者ということかなあ」
 私は机の上に飾ってある先生の遺影に語りかける。
「でも私を本好きにしたのは先生だからね」

 奨学資金を貸与されてやっとのことで高校生になった私に、「これからは勉強ばかりでなく少しは本も読めよ」と、先生は言った。真新しい高校の制服を着て、宿直の先生を始めて訪ねた夜だ。この三月まで私の担任。先生の説得で母は私の進学を認めた。戦後十年、まだ高校に入らなくてもおかしくない時代だ。
「『次郎物語』の下村湖人は立派な人だよ」
 先生が初めて私に貸してくれた本は『若き建設者』、『論語物語』などの下村湖人の著作だった。私は特におもしろいとも思わなかったが、大好きな先生の言うことを聞かなければ、という思いで母の手伝いのやりくりをして読んだ。すぐ就職するという約束で商業高校に進学したけど、本当は大学に進んで先生のようになりたかった。
 先生は次々と私に本をよこした。近くに住む中学生が運んでくれた。中間テストが終って先生の所へ遊びに行った時、「これはぼくが今まででいちばん感動した小説だけど」と貸してくれたのは『チボー家の人々』だった。全十一冊の白水社版。私は夏休みに入る前に読み終えようと思った。おもしろくはなかった。ジャックの少年時代までは共感するところも多かったが、兄と対立する主人公の生き方はよく分からなかった。夏休みに入ると、『ジャンクリストフ』が来た。ヘッセやジイドの作品も来た。
 一方で、私は学校の図書館から借りて太宰や漱石を読むようになっていた。おもしろかった。『こころ』を読んだらどうしても先生に会いたくなって、宿直室を訪ねた。
「先生、人間は何のために生きているのっしゃ」
 私はストレートに聞いた。
 三十代で寡婦になり、農家と言いながら一年間食べる分の田んぼもなく、「金がない、金がない」と言っている日雇い同然の母を見ているうちに、私は生きることに疑問を抱くようになっていた。
「さあ、ぼくにも分からないなあ。でも、人間は目的がなくても生きていける動物らしいよ」
「でも、それは生きているのが楽しい人の場合でしょ。おらほの母ちゃんなんか毎日、じんきゃない(生きがいがない)じんきゃないといってるんだよ」
「そうか、でもきみのお母さんは、生きがいがなくても死にたくはないと思うよ」
 私は、先生にも人生の目的がわからないというのが不思議だった。そして結婚して間もない、青年教師の先生にも生きる目的がないというのに少し安心した。
 すごい小説が出たよ、と言ってその晩貸してくれたのは深沢七郎の『楢山節考』だった。
 そうして高校三年の秋、私の就職試験はうまくいかなかった。学校で推薦してくれる銀行や会社を次々と落ちた。学科試験が受かって面接まで行くのだが、片親で貧乏人の子に世間は甘くなかった。学校が推薦するのはこれが最後だと言われて受けた地元の銀行も七人の学友と一緒に受けて私だけが不採用になった。その晩、私は暗くなるのを待って先生の所に行った。
「先生、おら、死んだほうがいい。死にたい」
 私は、先生の前で泣いた。先生は私に泣かせるだけ泣かせて、泣き疲れた頃、
「そうか、死にたいか。死にたいなら死んでもいいけど、でもきみは人間が何のために生きるかまだ分かっていないよな。悔しくないかい。もう少し生きて、もう少し人生のことが分かってからでも遅くないんじゃないか。いつでも死ねるさ。急ぐことはない」
 ほかの先生方のように建前論で来たら猛然と反発しようと思っていたのに、私はすっかりはぐらかされた。帰り道、「しかたがない、もう少し生きてみるか」という気になっていた。
 金がなくともなんとかなるという先生の言葉を信じて、私は大学に入った。教員になった。先生に会うと教育のことよりもその時々の小説について語ることが楽しみだった。先生はいつまでも先生だった。
 私の定年が近づいた頃、先に毎日が日曜日になっていた先生と小説の舞台を訪ねる旅をしようと約束した。しかし、先生は約束を守らなかった。私の聞いたこともない病気であっさり旅立ってしまった。

「先生、人は何のために生きるか今でも分からないけど、もう古希だよ。今、新藤兼人の『ボケ老人の孤独な散歩』を読んでいる。」そのうち、先生の所に持って行ってあげる。もう少し、世の中見てからね」


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工場内文庫繁盛してまーす! 藤田昭夫・62歳・東京都
「えっ、また本の紹介ですか? あまり皆読んでないようですがねえ」
私は小さなものづくりの会社の経営者。大の本好きで、年間百冊読むのが目標。悩みは家が狭くて本の保管場所が足りない事。そこで「えい! 思い切って会社に持っていこう」と思い立ったのが六年前。読んだ本は全冊会社に寄贈することにしたのだ。
「会社の中に本棚なんてあるの?」
「ちょっと立ち寄ってはみたけど、難しい本ばかりであまりおもろなさそうやで」
大半の皆は本には無関心。その象徴がこの社員の会話。それもそのはず、ものづくりの工場に本棚。これほど一見似あわなく思えるものは無い。あくまで我社は汗まみれで働く製 造現場が中心で体力勝負の世界。「だが待てよ、世はPRの時代だ」そう思い私は本の寄贈をきっかけに、社員に読書を奨励しようと先ずは本の紹介から始めてはみたのだが...
 毎月の社員への訓話、社内メールや掲示板で紹介また紹介。
「この本を読むと面白いぞ!」  
 しかしながらどうか? 冒頭の声は、この活動を始めて一年程経過した頃の訓話に対するある幹部社員の感想。「あなたもようやるなあ」と半ばあきれ気味の表情がありあり。

  読んで「素晴らしい!」と感動した時、私は読書を薦めたくなる。ひたすら読む。じっくり読む。すると必ず何かが得られる。そう信じて私は、寄贈する度に自分が読んだ本の紹介に感想を交えながら努める。だが、始めてしばらくの間はかの具合で、社員の大半は本を読む習慣には程遠いなあと感じた。
「やっぱりそうか」とため息をつきかける。
「会社で本を読め読めとしつこく言われるなんて思ってもみなかった」
「本なんて字を見るだけで肩が凝るよ」とばかりに周りの視線が無言で迫ってくる。
 本を読む習慣の無い人にあまり読書を強制してもなあとつい弱気になりかかる。
  しかし「誰かと一杯やりながら、最近読んで感動した本の話を語り合ってみたいなあ」と私の熱意は中々冷めない。「たとえ一冊でも、どうすれば読んでくれるかなあ」 「そうだ! ものづくりと一緒だ。愚直にやるっきゃない!」そう腹を決めた私は「積ん読でもいい。本をたくさん置いて、皆の目に触れるようにしよう。そのうち誰かが本に手を伸ばすかも」と本を増やし続ける。話題のベストセラーも置く。本棚の前にはテーブルと椅子を並べ小さなサロンにもする。そして辛抱強く本の紹介を繰り返した。

 そしていつしか徐々にだが、本をめぐる社員との会話が増え始めてきた。
 ある時はメールでの反応、「『メルセデスの魂』面白かったです。仕事の刺激になります」
 続いて年配者の声「『壬生義士伝』胸にジーンときました。時代物はいいですねー」
 浅田次郎か「わかるわかる」と同世代の私は共感。すぐに時代小説をどさっと寄贈する。

 そうするうちにまた何年か経ち、本棚と本の数も目だって増えてきたある日の事。
 突然日頃めったに会話しないある若手社員が
「社長、『流転の海』読んだんです。主人公たまんなく面白いっすねー。夢中に読みまし た」と訥々と話しかけてきた。昼休み、本棚の前を訪れた時の事だ。 「君が?」と思わず驚きの声を発しそうになる。普段の彼は読書に励むなどという印象と は程遠い。そして気がつくと本棚の前には結構大勢、若手社員が集まっている。
「実は私も宮本輝のファンになりました」
と側にいた女子社員が話に加わる。他の若手社員達の声が続く。 「皆で勝手に社長の名前をお借りし『藤田文庫』と愛称で呼んでまーす!」 「君達にまた親しい友達ができたな」
と思わず答えた私、その日は一日中心躍る気分だった。

 最近うれしい事にある定年間近の社員が「これ皆で読んで下さい」と大量の本を寄贈し てくれた。彼のような本の寄贈者が増え始め、今では藤田文庫も蔵書数が二千冊を越える。 立ち寄るたびに〈貸し出し中〉が増えたなあと実感する。私も再読を含め時々借りている。 要望や提案も徐々に出されるようになってきた。もっと人が集まる場所に本棚を置いてほ しい等々。本の話題によるのか、心なしか社員同士の会話も活発になってきた気がする。
 そして再び「よし! 若手と一緒に読書会をやるか」と、私の心の中ではむずむずと本の虫が騒ぎだす。「まだまだ無関心層は多いですよ」との慎重な意見もあるだろうな、と頭の中で試行錯誤が始まり出す。私の気持ちが一番ワクワクしてくるひとときである。

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「桜桃記念日」 野村 伸江・53歳・愛知県
「ああ。一度でいい。腹いっぱい桜んぼが食いてェ」
 きっかけは小学三年だった息子の一言だった。
「好きだったのォ!?」
 私が思わず目をむいて大声を出したのだろう。息子は気迫に押されておずおず頷いた。
 私には桜んぼがおいしいと思う感覚がなかった。子供の頃、生の桜んぼを食べたことがなく、めったになかったがパーラーでアイスクリームを頼むとウエハースと一緒にまっ赤な缶詰の桜んぼがついてきた。食べ物を残す習慣がないから食べただけのことだった。
 子供には旬の食べ物を食べさせようという考えはあったので時々小さなパックを買い求めていただけだったのだが、叶えてやれる希望はできるだけ聞くようにしていたので実行に移すことにした。しかしお腹いっぱいというのは大変である。ざる山盛りの桜んぼを前に私は子供たちに宣言した。
「お腹いっぱい桜んぼが食べたいというお兄ちゃんの希望があったので用意しました。しかし桜んぼは高くて我が家にはぜいたくですから、これからは一年に一回だけ食べる日を決めます。六月十九日はお母さんの大好きな作家、太宰治の命日ですからこの日にします。いいですね」
 子供たちは話を聞いていない。目の前の桜んぼに心を奪われている。
「条件は二つ。いつか太宰治という人の本を読むこと。それから『桜桃』という作品に―子供より親が大事。―と書いてあります。それを言ってから食べるべし」
 ほとんど犬にする「お手」に近いが子供たちは何でも言うぞ、という雰囲気で
「子供より親が大事」
と嬉しそうに声をそろえて言う。『桜桃』をそばで朗読しようかと思ったが、小三と小一に
聞かせる事もないか。と思いとどまった。
 それでも桜桃忌の話。玉川上水の話。津軽の事。どこまで聞いていたのか、ふんふん相槌を打ちながら、夢中で食べ続けていた。
 毎年六月十九日、この習慣は続いた。六月に入ると子供たちは十九日を心待ちにするようになった。
「そろそろ桜桃忌だよね」
「何か言うんだったよね」
「うん、子供より親が大事って言うんだ」
 会話は少しずつ大人になっていく。学校の事。友達の事。子供は子供でその世界で社会性を身につけるのにもがいているのが見てとれる。
―生きるという事は、たいへんな事だ。あちこちから鎖がからまっていて、少しでも動くと血が噴きだす。―
「と、太宰が書いてるよ」
 少しずつ本を読んで聞かせる。ふーんと相槌を打ちながら桜んぼを食べている。
 そして夫婦も続けていくのはたいへんな事だった。夫の暴力からついに家を出る決心をしたのは、息子十五歳、娘十三歳の六月だった。
 十九日に桜んぼを食べながら、息子が
「太宰読んだよ。きれいな日本語を使うんだね」
 娘が
「そっ。涙の谷」
 えっ読んだの。『桜桃』。口に出して言うつもりだったが声が出なかった。
 その直後二人の子を連れて家を出た。離婚はあくまでも夫婦の問題だが、子供たちは私がとまどうほど深く傷ついており、私は私の悲しみにひたるひまもなく、生活と子供たちの心配に明け暮れ、涙の谷は汗も涙も流れっぱなしだった。
 それでも時とともに子供たちは傷を癒し、成長してきた。
――子供たちに、ぜいたくなものを食べさせない。子供たちは、桜桃など、見た事も無
いかも知れない。食べさせたら、よろこぶだろう。父が持って帰ったら、よろこぶだろう。―
 太宰さん、すみません。私は一年に一度、ぜいたくをさせております。
 気がつくと、いつのまにか
「親より子供が大事」
と言っている。あのねぇ。
――子供より親が大事、と思いたい。その親のほうが弱いのだ。―
「と、太宰が書いてるでしょ」
「そうだったぁ?」
 気のない返事がかえってくる。何年たっても子供たちはおいしそうに桜んぼを食べている。
「ねぇ。これいつまでやるの」
「いつまでやろうかねぇ」
 終わりにする理由がない。私たちの桜桃記念日は何とも幸せな時間なのである。

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佳作

寿限無(じゅげむ)の思い出 森田 文・74歳・埼玉県
 子どものころ、家にあった落語の本が好きだった。子ども向けの本ではなかったけれど、漢字にルビがついていたから、意味はわからなくても読めた。
『じゅげむ』はわかりやすい話だった。
 男の子が生まれ、その子の名前をお坊さまに考えてもらう。無限に生きる意味の寿限無をはじめ、つぎつぎとよくばって、長い名前がえんえんとつづく。
 その名前を声に出すと、たのしくて、おもしろくて、いい気持で、夜眠る前に天井を見ながら大声でいった。
 国民学校六年生のころ、体育の時間が雨の日は「お話」をするきまりだった。指名されて『じゅげむ』を話した。
 はずかしがり屋のわたしが、みんなのまえで歌うように呪文のように、自分でも信じられないくらい、ころころことばが出てくる。
 みんながたのしそうに笑ってくれたので、おしまいの落ちまで、
「けんかしてこぶが出来た友だちが、じゅげむのお母さんに文句をいいにきて、長い名前をいっているあいだに、こぶがひっこんでしまいました。それでまた、じゅげむもいっしょに、あそびにいきましたって」
と、ひっかからずにいえた。
 先生がほめてくれるのを待っていた。
 ところが先生はわたしを見て、たしなめるようにいった。
「兵隊さんたちが、お国のために一生懸命たたかっている時に、ふまじめなお話などするものではありません」
 教室は静まりかえった。わたしは、おもしろい話をしてはいけないんだと思った。
 それから、夜眠るまえの『じゅげむ』は、口の中でもごもごということにした。
 夏休になって、昼寝をしている時だった。警戒警報なしに、いきなりけたたましい空襲警報のサイレンが鳴りひびいた。
 わたしは半分眠ったままで、母と姉と、庭に掘った防空壕にころがりこんだ。とたんに、真上でグラマン戦闘機のキューンキューンと金属のこすれるような音が聞こえてきた。
(うちの防空壕が、機銃掃射されてる)
 わたしは泣きだした。
「背中が燃えてる」
「大丈夫よ。燃えていない」
 母が背中をさすっていう。
「熱い、熱い」
 防空壕から飛び出そうとしたら、母と姉にからだをおさえつけられた。
 わたしは早口にわめいた。
「じゅげむ じゅげむ ごこうのすりきれ かいじゃりすいぎょ すいぎょうまつ くう ねるところ すむところ」
 息がつまって、やすんだら、
「まちがってる」と姉がいった。
「なにが?」きょとんとすると、
「すいぎようまつのあと、『うんらいまつ ふうらいまつ』がぬけてる」という。
「ちゃんといったよ」
 わたしは口をとがらせた。防空壕から飛び出すことをわすれている。
「いってないよ」
 ふたりで、いつもの口げんかがはじまりそうになった。
 母がぷっとふきだした。
 母の笑顔を見たら、なぜかほっとして、わたしたちも笑った。そして三人で『じゅげむ』を大きい声でいった。グラマンはまだキューンキューン飛んでいた。
 あとで、どうしてあんな時に突然『じゅげむ』をいいだしたのかと、聞かれたけれど、なにもいえなかった。
 こわくてこわくて、どうしていいかわからないうちに、ことばが勝手にころがり出て来たような気がする。
 一九四五年に戦争が終わって、ことしで六十二年になる。
『声に出してよみたい日本語』に『じゅげむ』がはいっているのを見た時は、胸がふるえた。
 その晩、天井を見ながら数十年ぶりに『じゅげむ』を声に出していってみた。物忘ればかりしているこのごろなのに、なんと、ひとことも間違えずに、いえたのである。忘れていなかったのである。

「パイポ パイポ パイポのシューリンガンシュ―リンガンのグーリンダイ」
といいながら、四・五才くらいのぼうやが、お母さんと歩いていく。
 わたしもつられていいながら、ふと『じゅげむ』が、「ふまじめな話」になる時代はこないでほしいと思った。

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親は、本、大好き! 
さて、その子供たちは…?
佐藤まゆみ・50歳・神奈川県

 本屋へ行くと、まずコミック本のコーナーへダッシュ。学校の図書館から本を借りてはくるが開いている姿を見たことはない。昨夜読んだはずのドラゴンボールを登校直前までもう一度なめるように読んでいる。23歳と20歳の息子たちは、そんな小学生だった。
 子供は親の背を見て育つというが、夫も私もマンガは読まない。本好きの私の子どもたちの姿がこのありさま? でもまぁ、強制されて読む本なんて面白いはずがないし、強要しても仕方がないと半ば諦めていた。
 そんな頃のある日ふと思い立って子供たちの布団の間に割り込み、頼まれもしないの
に私は声を出して童話の本を読み始めた。「いったい何?」といぶかしげな息子たち。
 2人ともすでに小学生になり、読み聞かせなんて随分久しぶりだ。もう聞いてくれないよね? そう思いながら読み始めたはずだった。意外にも翌日も次の日も「今日も読んでくれる?」とオファー。ささやかな快感!
 かくして本棚で眠っていた『日本昔ばなし60巻』が久々に引っ張り出されることになった。

 わが子を膝に乗せ優しい声でゆったりとお話を聞かせてあげる母親。そういう姿に私は結婚前から憧れていた。子供が好きだったし、私もそんな「おかあさん」になる予定だった。しかし、いざ子育てが始まってみると、ひたすら慌ただしく過ぎていく毎日。長男に絵本を読み始めたかと思うと、あらら次男が「オシッコ!」と呼んでいる。目は文字を追っていながら頭の中は今夜の夕食メニューに悩む日常。思い描いていた母親像には、なかなか近づけなかった。絵本を読んであげるより自分の読書時間が欲しくて子供を寝かしつけるべく背中にくくりつけ、ゆらゆら揺らしながら文庫本を読んだこともあった。そんなこんなの肉体労働としての子育て期も終わり、読み聞かせなど過去の思い出になりかけていた頃の「お話タイム復活」だった。
 自分で本が読める年齢になっても、素人の 拙い読み方であろうと、耳で聞くお話には何 か独特の魅力があるのか2人は吸い込まれる ように聞いてくれた。TVアニメを一心不乱 に見つめる時とは別の真剣さで。あれほど漫 画一辺倒だったのに本棚の前で「今日はどれ 読んでもらう?」なんて2人で話している姿 が何だかこそばゆかった。
  事の発端はほんの思いつき。久しぶりに童 話の本を私が声に出して読んでみたくなった だけ。教育的な思惑や打算は何もなかった。 でも期せずしてイイ感じの展開に私は心の中 で小さくピースサイン。
 親が本を読む姿は子供たちが物心つく前から見せてきたが、本の中の世界に引き込まれていく「ときめき」を伝えることを忘れていたかもしれない…と、その時やっと気づいた。うっかり取りこぼしたまま通り過ぎるところだった。何はともあれ息子たちが夜の新しい日課を楽しみにしている様子が嬉しかった。
 さて、その後、彼らは本が大好き子に成長しました。…などと美しく展開しないのが現実。思春期以降の息子たちは本など見向きもせず、本といえば、音楽やファッションの雑誌ばかりの学生生活を謳歌。親との会話はどんどん少なくなり、何か言えば親を罵倒するような言葉が返ってきて親子喧嘩に終わるだけ。寂しくないといえば嘘になるが、これも男の子の母親の宿命と割り切るしかなかった。

 ところで、今年の春先、大事件が起きた。社会人1年生の長男が日々続く長時間労働で心身のバランスを崩し、入社1年目が終わろうかという23歳の誕生日の深夜、会社を出た後、姿を消した。まさかの事態が何度も頭をよぎった。幸いにも数日後やつれた表情で帰宅。自ら心療内科をネットで探しアポを取り受診。即座にドクターストップがかかり2ヶ月半の休職。本人はもちろん傍で見守るしかない親にとっても辛く長い2ヵ月半だったが、その間に彼は突然本好きに変身した。激しい心身の疲労と落ち込みの中から徐々に回復していくのを手伝ったのが良き友人たちと本だったように思えて仕方がない。気がつくと部屋にいろんなジャンルの本が増えていた。
 転職し新たな職場で生き生きと仕事を始めた今も、読んだ本のメモをこまめに取っている様子。見たことがなかった姿だ。まだまだ読みたい本があると言う。通信教育も始めたようだし、何だかとても前向きだ。

 蒔いた種はいつ実るか、あるいは芽さえ出ぬか、それは誰にもわからない未知数。布団で本を読んであげた始まりは親の気まぐれ。「種まき」を意図して本を読んであげたわけではないし、何らかの「実」を結んだという手応えもない。でも、それでいい。まだ無邪気だったあの頃、本を媒介に息子たちと心和む時間を共有できた思い出だけで、今、母は勝手に、そして十分に自己満足している。

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ディッセンバーリード 八木幸次・33歳・静岡県

 メタボリックシンドロームが巷で取り沙汰されている昨今、私の周りでもランニングを趣味とする人が増えている。中には毎朝10キロを走ってから出勤してくるという本格派もいる。『ランナーズ』という雑誌の企画で「オクトーバーラン」というものがあり、それに参加している人も多い。オクトーバーランとは、同じような趣味や目的を持つ仲間と励まし合い、10月に走った距離を報告し合うというものらしい。それに参加するほどの気力は持てなかった私だが、先輩に勧められて毎晩2〜3キロ程度のジョギングをしていた。
 そんなある日、先輩が文庫本を片手にやってきて、「運動ってさ、どんどんおもしろくなってきて、のめり込んじゃうだろ? そうすると頭の中まで筋肉になっちまうぜ」と、のたまい始めた。
「いいじゃないですか、脂肪より筋肉のほうがずっと」と答えると、
「そういう君は、もう少し教養で身を太らせたほうがいい」とのこと。持ってきた文庫を私に貸してくれた。
 本は大崎善生氏の『聖の青春』とある。将棋会の最高峰であるA級に在籍したまま夭逝した、村山聖棋士について書かれたものだ。
 読み始めると止まらなくなり、私は2日で読了してしまった。病気で余命いくばくもないため、勝つか負けるかではなく生きるか死ぬかという将棋を指した村山聖棋士の生き様に感動した私は、次の日に先輩をつかまえて感想をまくしたてた。
 自分はあの部分がおもしろかった、ああいう考え方は自分にない視点だったなどと、読んだ本の話をするのはとても楽しく、先輩も「そうだろう?」と満足そうだった。そして話しているうちに、「ほかの人にもこの本のことを教えてあげましょうよ」ということになった。おもしろい話題を自分たちだけで共有していることがもったいなく思った
のと、読書の話題を交換し合うのがとても楽しいとわかったからである。
 仲間を誘うにあたって先輩は、
「村山聖棋士は大変な読書家で、家にはものすごい数の本があったらしい。大いに見習うべきであるが、体育会系の我々にとっては正直、厳しいものがある。だからこの読書会は、取り組みに温度差があっても良いと思っている。誰もが気軽に参加でき、無理することがないような会にしたい」と考えを語った。そう聞いた私はひらめいて、先輩に言った。
「じゃあ、ディッセンバーリードというイベントにしましょうよ。とりあえず、12月のひと月だけ様子を見て頑張ってみるという」
「ああ、それいいね」と賛同してくれた先輩と、詳細を煮詰めてみた。
 インターネット時代の今は、仲間のほとんどがブログをやっていて、そこで走った距離などの情報交換をしている。オクトーバーランを模倣したディッセンバーリードも、その形でやってみようということになった。読んだ本の冊数やページ数を競うものではなく、自分のペースでの読書量を自分のブログにアップする。どんな本を読んでもいいし、読まない日があってもいい。自己管理が目的であり、仲間と楽しみ励まし合いながら読書をするイベントとして、ディッセンバーリードを一緒にやってみようと募ってみた。
 最初は先輩と2人だけかもと思っていたが、思いのほか賛同者が集まり、10人ほどになった。「師走の忙しいときだからこそ、寝る前の5分だけでも本を開く余裕を持とう」
という先輩の呼びかけにより、始まってからも徐々に人数が増えていき、最終的には20人ぐらいになった。
  イベントをやり始めてみると、様々なことがわかってきて、とても楽しい気分になった。読んでいる本によって、それまで知らなかった後輩の一面が見えてきたり、興味のなかった分野のことがおもしろそうに思えてきたり、いろんな人の考え方や性格がわかるようになってきた。なにより共通の話題ができたことによって、職場での会話が広がり、仕事もスムーズにいくようになった。中には「恥ずかしくて読んだ本のことは書けない」という後輩もいたが、普段物怖じせず溌剌としている彼女のそういった一面を、皆が認識できたというだけでも価値あることなんじゃないかなと思った。そしてその後輩も会の趣旨に共感してくれて、自分の書ける範囲でブログにアップしてくれた。
 イベント終了後も、度々読書の話題がのぼるようになり、いまも飲み会などでたまに本の話をする。そのときに、「最初のきっかけは先輩から借りた『聖の青春』だった」と毎回話して、周りから「くどい」と言われる。
 今年ももうすぐ、ディッセンバーリードの季節がやってくる。

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感謝と共に 湊 照子・88歳・京都府

 大正九年生れ、八十八歳の老女。
 本との出合ひは何時頃であったか定かではない。
 古くからの魚屋。弟と二人きりの母は、十九歳位で父を迎へ分家して、実家の近くに呉服屋をはじめた。一つ売れれば一つ仕入れる。小さな小さな店であった。
 大正時代の田舎町、商店と名のつくものは、魚屋、ちゃわん屋、荒物屋、きぐすり屋位で、家から二、三軒先のすじ向ひに紙屋があり、文房具、本も置いてあった。
 若く聡明な母はとても教育熱心。四月三日誕生の私を、三月三十日出生として一年早く学校に上げた。当時はそれで通用したのだろう。大正九年三月三十日生れで通している。
 座敷の違い棚の帳箪笥に、月々母の『婦人倶楽部』、私の『幼年クラブ』が並んでいたのをよく覚へてゐる。三ヶ月に一回出版の文学全集も揃へてくれた。低学年は赤の装丁、高学年の装丁は青色であった。
 そんな母も、私が小学三年生、弟、小学一年生、妹三歳、次弟は生後四ヶ月、四人の子供を残して急逝した。二十九歳、二月七日、寒い寒い日であった。
 二人いた女中さんは暇をとって帰っていった。店の事、子供の事、炊事まですべてが父の肩にかかった。
 一年後、新しい母を迎へた。
 すべてに大変であった父。そんな父が保護者会といへば必ず出席してくれた。担任の先生は、いつも「照子」と名指しで読本を読ませて下さつた。他の保護者から、「上手に読んでやなァ」と褒められたと、上機嫌で晩酌を重ねていた父をなつかしく想い出す。全校の読み方発表会には、いつも組代表で本を読んだ。小学六年の『瀬戸内海』の文を覚へている。本の好きな子供だったのだろう。
 小学六年卒業時、昭和の不況、銀行倒産、田舎でも借金で夜逃げする家も多く、よく市がたった。この当時上級学校進学は、大地主の子弟のみ、経済的にも、家庭的にも大変な 中、担任の先生のすすめもあり父は女学校に 上げてくれた。バス、汽車をたのむ通学不能 で、寄宿舎に入る。この頃から黒板の字が見 えにくく近視が進みはじめた。女学校入学を 機に眼鏡をかけた。
 学校も寄宿舎もとても楽しい。寄宿舎の古 い蔵書を読みまくった。二人の舎監に届く下 駄箱の上の『富士』『キング』『婦人公論』 をこっそり読んだ。少々気がとがめ部屋の友 を集めて朗読したものだ。消燈は九時、懐中 電灯で近視は進み、検眼の上の段を暗記して 右、上、Cなどでいつも0.1であった。  
 卒業時昭和十二年当時は良妻賢母の教育下大抵は裁縫を習ふのが普通、友二人と住込みで二年間一番苦手な裁縫を教はった。帰宅後は、店の仕立物をぼつぼつはじめた。
 戰事色も濃くなった昭和十八年秋結婚し、朝鮮全羅南道光州、主人の任地に渡った。昭和二十年敗戰、様々な辛酸を経て内地引楊、寄食、間借り、ランプ生活の四年間、住居を転々として、父の愛情、援助をうけてようやく現住所に落ち着く事が出来た。
 昭和二十五年、学校勤務の主人の下、内職程度の文具店をはじめ、三年位して雑誌、書籍も扱う。客の生徒達はせいぜい漫画か、週刊誌、学校から家に帰るまでの休息所、立読み、万引きの温床であったが、児童誌に付録を組みながら本との出合いが嬉しかった。
 この頃からはじめた「短歌」。上達はしないがどれだけ支へられ生きてこられた事か、短歌に巡り合へた倖をかみしめる昨今である。
 昭和五十一年、六十一歳で主人は逝った。
 共働きの息子夫妻と同居、三人の孫を見守る日々、乳児検診、幼稚園送迎、小学校授業参観などなど。
 昭和五十五年、独りではじめ独りで守って三十年の店を廃業した。
 幼い孫達をつれて月一回の府の巡回自動車文庫によく通ったのもなつかしい。
 孫達も夫々に成長し「朗読」の勉強をはじめる。朗読ボランティアとして目の悪いリスナーの方に町発行の公報、おしらせ版の録音、テープを待って下さる方々。こちらが色々教はる日々である。
 昨年から小学校読書支援として、始業前の十分間の読み聞かせに参加させてもらっている。平成生れの児童と、八十歳の年齢差を感じながら、「次は何を読もうか」と前向きに暮させて頂き齢を忘れる。娘の様な友に、さんざん迷惑をかけながら車のお世話になっている。友が老眼鏡と言うのを聞きながら眼鏡不要の近視を喜ぶべきかも知れない。

 四人の姉弟の中、一番本の好きな私、幼い時に本を与へてくれた亡き母の有難さを、しみじみと感じながら、健康で前向きに暮らせて頂ける今日に感謝している。

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蚊帳の中のランプ 玻名城 千代子・69歳・大阪府
 南国沖縄の太陽が西の海に沈み、薄紫に紅を重ねたような残照が空を染めていた。週に一度しか帰らない父が勤め先から帰ってくる土曜日だった。早く部屋の掃除をし、夕食の支度をしなければと思いながら、目は活字の上を走る。誰にも邪魔されないガジュマルの木の上で今日借りてきた『母をたずねて三千里』を読み耽っていた。小学校四年の夏、夕風がガジュマルの枝を揺らし、私の頬をやさしく撫でていった。
 戦争で母と妹をなくし、大阪から父と二人で故郷沖縄に帰って三年が経っていた。父は米軍のキャンプで働き、土曜日の夕方帰り、日曜日の夕方出勤する。一人で父の帰りを待つ私の友であり家族だったのが、たった一軒あった貸し本屋で借りてくる本だった。
 幼い子供を持つ主婦が、自宅の一室に焼け残った本を並べ、貸し本屋を開いていた。学校の帰り親友と一緒にそこへ立ち寄るのが楽しみだった。読みたい本が沢山あったがお金がない。そこで考えたのが二人で一冊ずつ借り、一日で二冊読もうと決めた。
 古い本は店主のおばさんの手で、綴じ直されきれいな紙で表紙が付けてあった。おばさんは赤ちゃんをおんぶし、小さな男の子に絵本を読んでやりながら、丁寧に本を修理していた。私達は古い本の中から飛び出してくる素敵なヒーローやけなげなヒロインに、心ときめいたり、涙を流したりしていた。
 風が冷たくなり闇があたりを包んだ。本の字が見えなくなると、ハッと気が付き、するすると木を下り家へ向かって走った。家には明かりがついていた。父が帰っているのだ。後悔が私の体を堅くした。父の怒った顔を見ないように目をとじそっと戸を開けた。
「昼間から本など読むな。明るいうちは働くのだ。掃除はどうした、洗濯や水汲みは」
 父の怒りが爆発した。父は真っ赤な顔で怒りながら狭い部屋を片付け、夕食の豆腐に細かく刻んだネギとすり卸したしょうがを乗せ、醤油をかけた。かけた湯のみ茶碗に泡盛を注ぎ、大きな溜め息とともに腰を下ろした。そんな父を見ながら、私は黙ってランプのホヤを磨き灯を入れた。昭和二十四年、その頃の沖縄は電気も水道も無く、毎朝の水汲みと、ランプのホヤ磨きは子供の仕事だったのだ。
「灯火親しむと言って、本は暗くなって外の仕事が終わってから読むものだ。昔は夜は明かりを蚊帳の中に入れて勉強したものだ」
 黙って父の前に正座している私の前に、炊きたての麦御飯をよそって置き、茶碗の泡盛を一口すすって立ち上がった、米軍の払い下げのカーキ色の鞄の中から、取り出した包みを御飯を食べ始めている私の前に置いた。
 箸を置いて包みを開けると、美しい色刷りの表紙の雑誌『少女』が出てきた。新しい雑誌などなかなか手に入らない、戦後間もない頃の事である。父はどうして手に入れたのだろう。私は嬉しくて御飯を食べるのも忘れ、宝物のように抱き締めたまま頭を下げた。父は黙って泡盛を飲んでいた。
 夜が更け父が寝てしまうと、私は足音を立てないように、新しい本を抱えて蚊帳の中へ入り、手を切るようなページを開いた。しかし仄かなランプの灯では本は読めない。でも朝まで待てない私は、ランプを蚊帳の中に入れ煤で鼻の頭を黒くしながら、本の中の夢の世界へ入っていった。
「馬鹿者何をしているんだ」
蚊帳を揺らし父の声が頭の上に落ちてきた。
 あれから六十年が過ぎた。大阪での暮らしも早五十年を超えてしまった。頑固一徹、勉強は自分でするものだと、一人娘の私が義務教育を終えると社会へ放り出した父。そんな父を恨んだ事もあったが、本を読む事が大好きだった父は、一緒になって本を読み、活字であれば古新聞まで読む、小学校も出ていない明治生まれの父に今は感謝している。
 連れ合いの死、子供たちの巣立ち、仕事もリタイヤした。しかし残り時間で本が読める読みたい本が読める幸せ、貧しくても電気があり、いつまででも好きな本が読める。本を買うお金がなくても、図書館は本でいっぱいだ。本の林の中をさまよっていると時間を忘れる。本はいつも私を夢の世界へ誘い、幼かった日に帰してくれる。
 今日は待ちに待った宮本輝さんの『花の回廊−流転の海 第五部−』が読める。先日、図書館で予約してあったのが返ったとの、図書館からの電話に、さっそくバスで図書館へ向かう。人生の残り時間の中でどんな本に出合うのだろう。そんな事を思いながら本の森の中をさまよっている。
「馬鹿者何をしているのだ」
という父の怒声が聞こえる。蚊帳の中にランプを入れているわけではないが、父の死んだ年を越えて生きる私が、夢の中をさまよっているのを怒るだろうか。いつまでも大好きな本の中で夢が見られるように、眼鏡を愛して父の細い銀縁の眼鏡も欲しいこの頃だ。

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三十年目の空想会話 成宮敬人・64歳・高知県
「ターちゃん、本を借りてきたよ」
 学校から帰るなり、ニコニコ顔の兄がランドセルから本を取り出した。大事そうに畳の上に置いて、ゆっくりとページをめくる。私は、目を輝かしてのぞき込んだ。ところどころに挿絵があって、その絵を見ているだけでも、その本の世界に引き込まれていく。
 いつも、兄が学校から帰るまで、私は家の中で一人で遊んでいるか、近所の子供たちと缶蹴りやかくれんぼをして時間を過ごした。だから、三歳上の兄が帰ってくるのが毎日の楽しみだった。
「何ていう本?」
「よしつねき、と言うんだ」
「よしつねき?」
 本の表紙には、義経記と書いてあったのだが、まだ小学生前の私には、そんな難しい字はとても読めなかった。ただ、「よしつねき」と振り仮名がしてあるのは判った。
「これはね、牛若丸と同じ人なんだ」
 その名前を聞いて、急に親しみが湧いてきた。紙芝居の英雄だ。牛若丸を知らない子供はいなかった。
 小学校高学年用の本らしく、難しい漢字が随分混じっていて、兄にも読めない熟語が沢山あった。しかし、そんなところは適当に飛ばしながら、大きな声で読んでくれた。
 このわくわくする英雄物語は、私を本好きにしたし、特に後年、「歴史もの」に興味を持つきっかけになった。
 それからも、兄は透明人間や里美八犬伝など、夢をかき立てるストーリーの本を、次々と借りてきて読んでくれた。
 曽我兄弟の仇討ちは、気に入った本だった。とりわけ、富士のすそ野の巻狩りで親の敵の陣屋に踏み込む場面は、子供心にも、どきどきと心臓が高鳴り、手に汗を握るクライマックスだ。何度も読み返すうちに、兄は曽我兄弟が叫ぶ口上をすっかり暗記してしまった。
 ―ヤアヤア、もうきの浮木うどんげの、花まち得たる今日ただいま、十八年のなが年月、艱難辛苦の甲斐ありて、仇討つことのうれしさよ!
 曽我十郎役の兄が呼ばわると、五郎役の私もミエを切って、刀がわりの竹製の物指しを腰から引き抜いて、
 ―仇討つ今のうれしさよ!
と、まねをした。

 ある日、兄は『小公子』という本を借りてきた。これは、遠い外国の話だ。アメリカに住んでいる少年が、イギリスの厳格な伯爵の祖父に引き取られるという物語だった。気むずかしい祖父のもとで、貴公子として育てられる運命を背負った少年は、大きな客船に乗って海を渡り、まだ見ぬ祖父が住む城に向かう。
 この本にも、何枚かの挿絵があった。西洋の城館や、鹿が遊んでいる広い庭。上流階級の公子として育てられるために、襟にフリルのついた可愛らしい服を着た少年の挿絵もあった。
「イギリスという国は、どこにあるの?」 そう訊ねると、
「どこかなあ。兄ちゃんもわからない」
そう言いながら、
「学校の図書館に世界地図があるから、調べてきてあげるよ」と、面倒がらずに約束してくれた。

 まだ漢字も読めない幼い私が、本大好き人間になったのは、兄のおかげだ。その兄が、夏休みに溺れて死んだ。同級生と遠くの池へトンボ捕りに行って、足を滑らせて池に落ちたのだ。付近に大人がいなかったから、助けてくれる人もなく。
 私は、葬式のことを断片的に記憶しているが、もっと鮮やかに覚えているのは、兄と一緒に本をめくっていた幸せな光景だ。
 それから三十年後、出張でイギリスに行く機会があった。仕事が一段落した日曜日に、ロンドン塔やハイド・パークを見物したが、バッキンガム宮殿の前で、衛兵の交替式を見ているとき、急に『小公子』の挿絵を想い出した。同時に、あの本を読んでくれた、懐かしい兄の面影が浮かんできた。
(兄さん、今イギリスに来ているよ。あの本の挿絵みたいな情景だ)
そう心の中で呟くと、兄の声がした。
(良かったね。ターちゃん)
懐かしい。三十年前の兄の声だ。
(今でも、本は大好き?)
私は、口に出して答えた。
「うん。今でも大好きだよ。兄さんの分まで、読書に励んでいる」
 そう言うと、兄の笑顔が見えたような気がした。空想だったのか? でも、確かに懐かしい声が聞こえた。

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人生変わるよ!! 齊藤 洋子・17歳・イギリス
 私の部屋には百冊以上の本がある。初めて私の家に遊びにきて、本の山を見つけた友達が言う事、
「洋子って本好きなの?!」
 私、齊藤洋子の印象は元気で明るく、家にいるより外で友達と遊ぶのが大好きそう、と誰もが言う。確かにそうだし、そういう子になろうとしている私がいるのも確かだ。そういうのも、本を読む子=暗い子というイメージがあるからだ。なので、本を読むのが好きだなんて、友達にはあまり知られたくなかった。
 幼稚園の頃から絵本や物語が大好きで、私は隣のクラスの本も勝手にとってきてしまう程だったらしいが、きちんとした文章の本を好んで読み始めたのは小学二年生の頃からだ。勉強をきちんとする約束で、母は本を買ってくれるようになった。それからというもの、私は一ヵ月に十冊、二週間で十冊、三日で十冊と読むペースが早くなり、新しい本を欲しがる私をなだめる両親はすごく大変だったらしい。でもそのおかげで小、中学校と、国語を勉強しなくてもテストで九十点をとれたのだが。
 中学で運動部に入った私が家に帰るのは七時か九時。毎晩宿題やら睡魔やらに襲われ、本を読む事なんていつの間にかなくなっていた。本に目を向ける事さえなくなった。この頃の私は、ギャルっぽい子やヤンキーっぽい子、暗そうな子などいろんな人がいて、小学校とは違う世界に囲まれ、いつの間にか本来の自分を隠すようになっていた。人によく思われたいという一心で、周りの子の目を気にして、笑顔でいて、時には一緒に悪口を言っていた。そんなふうに成長する程、自分は悲しく思えてしょうがなかった。
 ある休みの日、私は近くのお店にCDを借りに行った。そこは本やDVDもあって、小さい頃よく母に本を買ってもらっていた所である。レジに行き、会計の途中でふと目を上げると、そこには看板が。
「新刊☆『Itと呼ばれた子』」
 拡大されている本の表紙には額に傷のある男の子がうつっていた。その男の子の目を見た瞬間、私は時間が止まったような、不思議な感覚に襲われた。なんて目をしてるんだろう…。悲しみとも憎しみともいえない、言葉では表すことのできない何かを感じとったのである。
 家に帰ってからも、何か変な感じがして私は落ち着かなかった。あの男の子の目がどうしても頭から離れないのである。よし、こうなったらあの本を読もうと思った私は、再びお店へ行き、その『Itと呼ばれた子』を買ったのだった。
 元々読むペースが早い私なのに、それを五時間もかけて読んだ。読んでるうちに何回も泣いた。虐待を受けていた筆者とは全く違う私だが、周りからおびえ、心の奥の奥ではわかって欲しいと願ってる、そんな部分が同じだと思ったのだ。幼い頃の家族六人の幸せは虐待という事実で一変、実の母に人としても扱ってもらえない筆者。殺されそうになってもまだ、母に愛して欲しいと願い続けた筆者。私は心を強く打たれた。
  それからというもの、私は変わった。その場だけの笑顔や言葉ではなく、心からの自分で相手と向きあおうとするようになったのである。ケンカをしてしまうようにもなったが、その分相手とわかり合えるようになり、今では親友と呼べる人が三人もいる。あの本『Itと呼ばれた子』に出合ったのは運命だったんだろうか…。
 今また私は本を読み始めた。部活や勉強が忙しいため、昔のように三日で十冊なんて読めないが、悩んだり、悲しくなったりした時は特に本を読むようにしている。
 もう一つ変わった事。それは友達にこの本いいよなどと言うようになった事だ。友達はこんな私を普通に受け入れて、むしろ尊敬する人NO1が私になった。本が好きだなんて知れたら暗い子だと思われる、嫌われてしまうなんていう私の予想は全く違った。逆に私は、自分でみんなに対してかべを作っていたのだ。
 今、私の部屋には三百冊以上の本がある。もちろん、全て読みきった物ばかりで内容も全て覚えている。これからも私の部屋には本が増えていくんだろう。そして、これからはあの本の山を見た友達がこう言うだろう。
「私も読んでみようかな」
そしたら私はこう言おう。
「人生変わるよ!」

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