家の光ネット
家の光協会は、農業・農村文化の向上を目指すJA(農協)グループの出版・文化団体です
家の光協会について お問合せ先 サイトマップ
JAのみなさまへ
購読申し込み 雑誌のご紹介 書籍のご紹介 読書推進活動 データベース フォトサービス
読書推進活動
HOME > 読書推進活動 > 第5回「家の光読書エッセイ」入選作品

読書エッセイ 入選作品

第5回入選作品(敬称略)
   
家の光読書エッセイ賞
 
大きなカブ 大きな幸せ 三重県 大森 和哉
   
優秀賞
 
手紙 青森県・藤川雅人
大人になれなかった弟たちに… 東京都・岡部達美
道しるべ 福岡県・池田千恵子
   
佳作
 
娘へのわび状 岩手県・小賀坂勝美
自分で選んだ「落ちこぼれ」   千葉県・小川 栄
真冬の記憶    東京都・岸田重夫
タツの「理解」 愛知県・杉谷孝枝
車いすでの入学 三重県・大西映子

第3回第4回第6回の入選作品についてはリンク先を参照してください


家の光読書エッセイ賞

大きなカブ 大きな幸せ 大森 和哉・44歳・三重県
 我が家には二人の娘がいます。そして、お姉ちゃんがまだ小学生だった頃、お姉ちゃんはよくぼくたち夫婦の前で教科書の朗読をしてくれました。それが担任の先生から出された宿題の一つなのか、それとも自発的にそうしようと思ったのか、今となってははっきりとは分からないのですが、真面目な顔をして真剣に本を読むお姉ちゃんを見るのは何よりも楽しみなことでした。 ある日のこと。いつものように今から朗読をするから聞いてと言い出しました。ところが、手にしていた本をぼくに渡すと暗誦し始めたのです。いつも以上の真剣な表情、背中を真っ直ぐに伸ばし、大きな声を出してくれました。 
  お姉ちゃんが話し始めたお話は「大きなカブ」の物語です。
  完璧に覚えたらしく、お姉ちゃんは自信たっぷりに話し始めました。ぼくは膝の上にまだ幼かった妹を乗せ、間違いがないか教科書を目で追っていました。
  パーフェクト。ぼくは子どもの暗記力に驚き、そして我が子の成長に目を細めたのです。
  ぼくたちの拍手に気を良くしたのか、もう一度発表するとお姉ちゃんは言いました。望むところです。妹も大喜びでした。
  一度目で自信をつけたお姉ちゃんは二度目は身振り、手振りを入れてくれました。カブを引き抜くシーンではまさに迫真の演技。それを見た妹はぼくの膝の上で体全体を使って喜びました。そりゃ大人のぼくが楽しいのだから当然のことです。
 そのうち、聞いていることだけに我慢できなくなったのか妹も真似を始めました。お姉ちゃんの指導で、2人が前後にくっつきカブを引き抜く真似が始まりました。2人はけらけら笑いながら、本当に楽しそうに演じてくれました。それを見ていたぼくたち夫婦も楽しくておかしくて幸せで、何とも言えない極上の時間を過ごすことができたのでした。
  翌日も妹はその時のことが楽しくて仕方がなかったようで「大きなカブ」の朗読をお姉ちゃんにせがみました。お姉ちゃんは快く引き受けてくれました。
  教科書をぼくに渡し、お姉ちゃんは昨夜同様背筋をピンと伸ばして朗読を始めてくれました。
  昨夜と同じ場面で妹は体を震わせて笑いました。昨夜以上の反応です。
  そして、次にぼくが手にしている教科書に興味を示したのでした。そこには楽しくて仕方がない「大きなカブ」の話が載っているのです。そんな妹にお姉ちゃんは「だめですよ」とキツク言いました。教科書が破れでもしたら、一大事と思ったのでしょう。
  お父さんの手にしている本の中には挿絵入りの「大きなカブ」の話が書かれています。妹はそれが欲しくて欲しくてどうしても我慢ができません。ついには大きな声で泣き出してしまいました。その泣き声を聞き、お姉ちゃんも教科書を取られては困ると妹に負けない声で泣き出してしまいました。二人の泣き声の大合唱はしばらく続きました。
  翌日、仕事が終わるとはぼくは本屋に行き「大きなカブ」の絵本を買い求めました。
  字が読めなかった妹もお姉ちゃんに教えてもらい、いつしか暗誦できるまでになりました。そうなると、二人で暗誦合戦です。どちらも、負けず嫌いで相手よりも早く言おうとします。「大きなカブ」の話はいつしかニ倍速で語られるようになりました。そして、二人の演技もニ倍速になったのです。その動きがおかしくて、妻もぼくも腹を抱えて笑いました。
  「大きなカブ」の本を買ってから十年以上の歳月が過ぎました。妹は、一番最初に自分で読みきった本として「大きなカブ」の本を今でも大切に自分の本棚にしまってあります。
「なぁ、この物語りを二人でお話してくれたこと、覚えているかい」
  ある日のこと、ぼくは二人の娘に言いました。
  二人ともしっかりと覚えていました。以前のように争って先に言おうとせず、お互いの間合いを計りながら声を合わせて暗誦してくれたのです。そして、何としたことか、二人の娘は前後になり、カブを引き抜く真似までしてくれました。
「早く、お母さんも」 「次はお父さんも」
  二人の娘に言われ、ぼくも妻も二人の後ろにくっつき、四人でカブを引っ張りました。
  楽しくて楽しくて涙が出てきます。むろん妻も泣き笑いをしています。そんな両親を見て、二人の娘はキョトンとした顔をしています。一冊の本から、こんなに素晴らしい思い出ができたことにぼくは心の底から感謝しました。
  「大きなカブ」、それは大きな幸せであったのでした。

このページの上部へ

優秀賞

手紙
藤川 雅人・33歳・青森県
 多くの高校がそうであるように、私の勤務する高校においても三年生になると本格的に進路への取り組みが始まる。放課後も補講があり、私は就職コースを担当することになった。国語教師ということで、漢字や四字熟語、ことわざといった基礎的な内容だけでなく、就職作文についても指導することになっている。
  その日の作文の課題は、「私の父母」であった。生徒達はいつものことながら、エッーと言いながらも鉛筆を持ち書き始めた。その中で一人、時間の半分を過ぎても窓の外を眺めたままの生徒がいた。彼女の原稿用紙には、小さい字で「わかりません」とだけ書かれていた。彼女はそれまでどのような課題であっても、しっかりと自分の考えを述べることができる生徒であった。課題の「父母」がよくなかったのだ。私は彼女の担任だったので、理解できたのだが、彼女の家族は母一人子一人であり、その母とも上手くいっておらず、寮で生活しており、ほとんど家に帰省していないのだ。
  私は彼女に少し待つように言って、図書館へ向かった。図書館から『日本一短い「母」への手紙』という本を借り、彼女に手渡した。私は「作文はもう書かなくていいから」と、本を読むよう促した。
  その本は題名通り、母への想いを三十字程度に綴った手紙の作品集なのである。一人暮らしをして、改めて母へ感謝の念を述べた手紙、天国にいる母への手紙、親孝行をしたいという手紙など二百数十編が掲載されている。母へ面とは向かっては言えないが、手紙でなら伝えることができる言葉がぎっしりと詰まっていた。出版された頃、本屋で見つけ、衝動買いをした。私自身も親孝行をしそびれてしまった経験があり、いたく共感しながら読んだ本であった。
  これまで私が読み終えた本は学校の図書館に置かせてもらっていた。詩集などは活字が苦手な生徒に薦めていた。この本もその中の一冊であった。
  作文を書き終える時間となった。彼女はうつむいたまま、「ありがとうございました」と言って、本を返した。まだ半分も読み終わっていないはずである。その証拠に表紙のカバーで、あるページをはさんだままであった。そのページは、母と一緒に暮らしたいという言葉が綴られていた。彼女の心には響くものが何もなかったのだろうか、あるいは、響くものが大きすぎたのあろうかと安易に本を手渡してしまったことを後悔した。
  次の日、朝のホームルームを終えると、彼女が私のそばに来て、「これ」と言いながら、かばんから本をちらりと見せた。「昨日、あれから買いにいったの。それからずっと読んでたんだ」と彼女は言った。
  数日後、「あのね、先生、私も本の真似をして、お母さんに手紙を書いたの。すごく短いけど」と彼女ははにかみながら言った。私は思わず、「どんな手紙なの?」と聞いた。彼女は照れながら、「お母さん、今度、話をしよう、という短い手紙」と答えてくれた。私はそうかと頷いた、彼女の中で何かが響いたのだと思った。
  それから彼女はいつも補講に出席し、作文を書き続けた。その結果、早い時期にある会社の事務として就職が決まった。私は彼女に「お母さんに伝えたの?」と尋ねた。彼女は、「まだです。この前会った時に、またけんかしてしまったから。でも、これでまた話すきっかけができたので、伝えます」と笑顔を見せた。
  あれから五年が経ち、私はまた就職コースの補講をしている。今も課題が書けない生徒には、無理して書かせようとはせず、その課題に関する本を薦めている。たいていの生徒は、少々厚い本でも読破し、感想を述べてくれる。また、それを基に作文も書いてくる。
  学生の活字離れや本を読まなくなったと言われて久しいが、本当に必要だと感じた時や目の前に望んでいた本があれば、夢中になって読み、その中から何かをきっとつかみ取るものだと私は考えている。それは、知識や知恵だけでなく、希望や夢かもしれない。喜びや悲しみかもしれない。また、前へ進むべき道を示し、次の一歩を踏み出す勇気を与えてくれるものだと信じている。特に高校生という多感な時期に読んだ本は一生忘れることができないものになるだろう。それもそれまであまり本を読んだことのない生徒ほど強い印象が残るのかもしれない。そう感じてきたこの頃、私は生徒に薦める本を慎重に選ぶようにしている。
  先日、彼女から手紙をもらった。「先生、お元気ですか。今、私は一児の母です。私も母の立場になりましたが、なかなか母親も難しいものだと実感しています。そんな時、また、あの本を読んでいます」という手紙だった。

このページの上部へ
 
 

大人になれなかった弟たちに… 岡部 達美・12歳・東京都
 三年前の夏、私は、書店で雑誌を捜していました。その時、私の目に、さびしそうな顔をした子どもの表紙絵が、飛び込んで来ました。それが、米倉 斉加年さんの『大人になれなかった弟たちに…』でした。
  私は、表紙絵で、こうも鋭く、心に入り込んで来る絵を見たことがありませんでした。最初見た時は、さびしそうに見えたのが、よく絵を、目で追っていくうちに、「この子、何かを求めている感じ」と、私には、思えて来ました。そして、「この本を読まなければいけない」と、その時、思いました。
  この本は、米倉さんの子ども時代の日本が描かれていました。特に、お母さんの姿が、印象的でした。お父さんが出征してしまい、家にいるのは、お年寄りと子どもと母親だけでした。その中、防空ごうを掘ったり、疎開もしていました。親類に断られても負けず、自分で疎開先を捜す人でした。そして、遠慮しながら、不慣れな田植えを手伝ったり、食べる物がない中、着物を米と交換しつつ、家族を守っていました。そして、「母の着物はなくなりました」
  こんなに強いお母さんが泣きました。弟の死。「泣きもせず、弟はしずかに息をひきとりました。母とぼくに見守られて、弟は死にました。病名は、ありません。栄養失調です」
  私は、赤ちゃんの時、お母さんのお乳が出なくて栄養失調でなくなってしまったヒロユキ君が、かわいそうでなりませんでした。生まれてから戦争に行ってしまった、お父さんの顔も見れなかったし、大人になれず、死んでしまうなんて。しかも、終戦の直前に。
  また、米倉さん自身の行動も、考えさせられました。たまにある配給のミルクの缶。
「それがヒロユキの大切な食べ物」なのに、「僕は弟がかわいくてかわいくてしかたがなかったのですが、…それなのに飲んでしまいました」
  私は、涙が止まりませんでした。心ではわかっていても、それほどまでにひもじくて、苦しくて、つい、手が出てしまったのだと思ったからです。私は、米倉さんに注意できません。だって、私も、こんな状況だったら、そうしたと、思えるからです。
  そして、最後の一文。
「僕はひもじかったことと、弟の死は一生忘れません」
  悔しかったのだと思います。どちらにも、子どもであった自分に、できるすべがなくて、悔しかったのだと思います。私は、そのつらさが、わかりました。悔しいというつらさが。心から。
  この本を読み終えてから、私は、考えました。このまま何もしなければ、私自身も悔しい思いをすることになるのではないかと。そんな子どもを、もう世に出したくなくて、米倉さんは、悲しい経験を伝えてくれたのではないかと。しかも、笑みのないヒロユキ君の顔を表紙絵に出してまで。
  次の年から、私は、子どもにとって、戦争は、どのような物だったのか調べ始めました。しかし、何回、図書館に通っても、生きた声を、全く聞けないことに気づきました。私は、考えに考えました。
「そうだ。当時、子どもだった人から伺おう。小学校の先輩は、どうかしら」
  こう思い、同窓会に協力していただき、やっと、一人の同窓生に会えました。中村 みね子さん。昭和八年生まれ。昭和十五年に、麹町小学校に入学。学童疎開の経験者でした。
  中村さんからは、次のようなことが伺えました。
「昭和十九年、山梨県に疎開。遠足に行く気分で、校庭に集合。でも、親は校舎の中には入れなかった。したくができ、校門を見たら、いっぱいの人たちが見送りに来ていた。大変なことだと、その時、思った」
  予感は、的中していました。
「私は、脱走の計画を立てたのよ。とにかく、空腹で、まいった。寒さと飢えとで、疎開は。終戦が、あと一ヶ月のびていたら、死んでいたと思う」
  そして、とうとう、脱走して、山梨から東京まで、線路づたいに来てしまったのです。
  私は、米倉さんから、大きな課題を与えられたと思っています。戦争捜し。子どもにとって、どんなにつらかったのか、しっかり見つめなおす旅をすることを。今年、私は、もう一人の同窓生、杉山さんに会いました。今、その話をまとめています。私は、ヒロユキ君のできなかったことが、毎日できています。米倉さんが子どもの時、味わったことのない友だちとの楽しい遊びも、できます。だからこそ、
  私は、ヒロユキ君や米倉さんの悔しさを、実感する旅をしていきたいのです。そして、戦争について、少しでも多くのことを知りたいと思いました。
このページの上部へ
 
 

道しるべ 池田千恵子・63歳・福岡県
 実家の母を我が家に呼び寄せ、介護を始めた。認知症と診断されたときからだった。それから九年後に看取り終えた。母、八十歳。私は五十八になっていた。
  見送った後の私は萎んだ風船であった。中身も外見もである。
  安堵感と共に、胸の内にぽっかりと穴が開いた思いがした。改めてじっくり見る鏡の自分は、実際の年齢よりもずっと老けている。これから先の私に、どういう道が拓いているというのだろう。もう、消えてしまいたい。そんな気持でいっぱいだった。
  介護していたときのことが思い返される。
  夫の仕事は二年毎に転勤がある。母と同居後の転勤では、母も一緒に赴任先に同行した。
  行く先々の土地で、母にはデイサービスを利用した。家では、極太の毛糸編み、絵描き、唱歌を一緒に歌う、思い出話を聞き書きするなどしてみた。そういう方法で、少しは認知症の進みを遅らせはできないかと試みた。
  だが、やはり年月を経るごとに症状は進んでいった。徘徊の他に、便を手掴するようにもなった。深夜に、それらの始末に追われることもあった。
  そのころには、小説の読み聞かせをしても、母はすぐに居眠りを始めた。もう、難しくなったのだろうか。ならば、と昔話の絵本を用意して広げた。ところが、母は言った。
「こういうのを読んでもらうのは、三つ子と一緒やね」
 不満げに、テーブルの絵本を押しやった。
「じゃ、いまはいくつなの?」
  母はじっと考えている。
「十二歳なんよ」
  すんなりと形よく整った高い鼻の、皺深い顔が答えた。
  それから私は書店に行き「十二歳」の母が興味を持ちそうな本を探した。それが『夢の果て』の文庫本だった。童話作家の安房直子さんが創る、八つの物語が収められていた。
  話の主人公は、おばあさんであったり、工場で働く娘や、金木犀の匂いに惹かれる少年、桔梗の精であったりした。そのどれもが、胸がキュッとなり、しみじみとし、幻想の世界へも連れて行かれる物語だった。
  折にふれ、母に少しずつ読んでいった。どこまで理解できるか定かではないが、読む途中で、それぞれの作品に関連した反応が返ってきた。
  例えば、ジャムを作る青年の物語では、「あたしのお母さんは、ジャムより煮豆を作るのが上手だった」と話し出す。
  また、アヒルとおばあさんの登場する場面では、「集金に行ったら、アヒルが追いかけてきて」とおかしそうに笑った。母の言うことが本当のことなのかどうか判らない。が、ひとときでも、ほっこりとした気分になってくれるなら、と私もうれしかった。
  だが、全作品を読み聞かせないうちに、内臓の病気を併発した母は他界した。
  見送った後の虚ろな心持のとき、この本のことを思い出した。童話だが、大人が読んでも心に染みる作品である。もう、読んで聞かせる母はいないが、これらの物語を、上手に朗読できるようになりたい。
  突然、そんな思いに駆られた。自分の低い声や、ボソボソした話し振りも忘れて、朗読教室に入った。それから五年近くなる。どうにか人様にも聞いてもらえる読みができるようになった。   
  現在は仲間と一緒に、老人ホームで朗読のボランティアをしている。認知症のお年寄りやデイサービスに通う方々が、広間に待っていてくださる。もちろん、『夢の果て』の中にある作品も、少し短くして何度も朗読した。ときどき、広間のどこかで母も聞いている気がするときがある。
  現在は老人ホームの他、デパートの喫茶室や図書館、また盲学校でも朗読の機会があり、準備や練習に忙しくしている。
  介護中に買い求めた『夢の果て』。これは「十二歳」の母が私にくれた、道しるべだったのではないだろうか。
  そうでなければ、朗読の道へのきっかけになった、安房直子さんの作品にも、出合うことはなかったかもしれない。
  母を看取った後の萎んだ風船だった私。いまはしっかりと空気が入っている。

このページの上部へ

佳作

娘へのわび状 小賀坂勝美・53歳・岩手県
 私専用の小さな本棚はいつも雑然としている。読みたいと思って買った本や図書館からの借り物。「これ、感動ものだよ!」と半ば押しつけで置いていかれた友人の本もあれば、主婦のお役立ち情報誌、そのすき間に領収書などの郵便物も挟まれてにぎやかである。
  満杯になった本棚に新たなスペースを確保するため時おり整理するのだが、要不要の仕分けの際にいつも憂鬱のため息がもれる本がある。いっそ処分してしまおうかと手に取るが、本棚から撤退させるにはいささかの抵抗があって、後ろめたさが心につき刺さる。いつかきっと読んでやらねば…と、毎回本棚に戻すのである。先送りしているうちに、とうとう十五年も経ってしまった。
  立派な装丁ではない。ぺらぺらの表紙に一七〇ページあまりの本文を綴じた廉価本である。『聞いてください子どもの本音』というタイトルに「おかあさんのためのやさしい児童心理学」とサブタイトルがついている。これは娘の通学していた小学校のPTAから推薦されて買ったものだ。
  当時、娘は五年生。彼女は自分を介して本と代金が行き来したことで、この本に肩入れしていた。そしてタイトルから読後の私の反応が大いに気になっているようだった。
「おかあさん、本読んだぁ?」
「ん? ん〜、まだ」
  しばらくして
「おかあさん、こないだの本読んだ?」
「まだだよ。忙しくて」
  こんな催促が何回も続いたが、私は一向に「積ん読」状態のままである。決して本を読む時間もないほど忙しかったわけではない。お付き合いで買っただけなので、読みたい本はほかにいくらでもある。後回しの、そのまた後回しにしているだけだ。
  しびれを切らした娘は言った。
「ちょっと読んでみたらね、私の言いたいことがいっぱい書いてあったよ。ねえ、早く読んで!」
  今度は少し語気が強かった。
「じゃ、その部分に線を引っ張っておいて。読んだ時、そうかそうか、ってわかるから」
  まじめな娘は言われるまま線を引き、私のところに持って来た。そしてその後も「読んだ?」に歯切れの悪い返事を繰り返して、私は相変らずページを開かない。時間が経つほどにますます億劫になっていた。
  娘は中学生になって話題にしなくなった。いつまで経っても生返事に終わる母親に愛想を尽かしたのだろう。
  そのうちに娘も下の子も、この本が対象とする子どもの季節を通り過ぎてしまった。もう用済みだ。しかし今度は私が断ち切れない。年を取り、育児のころを懐かしむゆとりができてくると、娘に対してなんてアコギな母だったかと自責の思いがふつふつと湧いてくる。この本は薄っぺらなのに、心の中でどんどん厚く、重くなるばかりである。
  今年、私はようやく読んだ。何が私を促したかといえば、来年、娘は私が彼女を産んだ年になる。娘が母親になってしまう前に、という私の中の勝手なタイム・リミットである。
  本を開くと、あちこちにミドリ色の線がいっぱいだ。頭ごなしの親の言動に抗議する子どもの心理状態や子どもからの言い分に「ここもだよ。そこもだよ。私もおんなじ気持ちだよ」という娘の声が生々しく耳元に聞こえてくるようだ。
  とくにきょうだいげんかを取り上げた部分の線がすさまじい。「お姉さんなんだからという年齢を基準にした考え方はいただけません」という文章にはひときわ太い線を引いて、私に訴えてかけていた。私の胸はぎゅっとしめつけられて悔やまれる。
  あの時、面倒がらずに読んでいたら、この本を話題に、母娘でいい会話ができたかもしれない。娘の気持ちをきちんと受けとめる姿勢があったら、私はどんなにか素敵なおかあさんになれたのに…。それなのに彼女を深く失望させただけだった。
  表紙絵は母親が乳呑み児を胸に、幼い女の子と見つめ合っている素描である。愛情と信頼のこもったまなざしがあたたかい。私はこんなにおだやかで優しい目をしていただろうか。子どもの視線を感じながら、心はいつも別のところにあったような気がする。だから本一冊にしてもこの有様だったのだ。
  けれどもそんな母親にもめげず子どもたちはすくすくと育ってくれた。彼女は本のことはとうに忘れているかもしれない。「読んだ」と報告しても、しらけた顔で「時、すでに遅しだよ」と言われそうである。
  棚上げしていた宿題をやっと終えて、今はホッとした気分と後悔が入り混じっているが、それでも読んでよかった。十一歳の子どもの切ない気持ちとそれを蔑ろにした私の若い日々。苦い思いが詰まったこの本を、反省を込めていつまでも本棚に置いておこうと思う。
このページの上部へ
 
 

自分で選んだ落ちこぼれ 小川 栄・48歳・千葉県

 少数派となる生き方を平然と通すのは難しいものです。間違ってるわけではない、そういうのもありだと頭では思っていても、世間に対するひけめや孤立感を抱きがちです。
  わが家には中三の娘と中二の息子がいますが、二人の子育ては夫である私が主に担ってきました。十五年前に上の子が産まれるとき夫婦で相談し「夫の私が仕事を辞めて育児・家事を担う形」を選択したからです。
  妻は早い職場復帰を希望し、私の方は、幼い間は親がそばにいて育児に携わりたいと思いました。また、妻は聴力障害者なので、赤ちゃんの泣き声が聞こえる私の方が育児をしやすそう、と言う事情もありました。
  最初のうち私は「男の育児もいい経験かもしれないし、一年くらいやって、一段落したら社会復帰しよう」と思ってました。育児休業法というのがもうじき制定され、その中に「男も一年間の育児休暇が取れる」という内容が入ってると新聞で見たからです。しかし一年半後に二人目が産まれたり、育児は容易に一段落するものでなかったり、世間では稀な形でも案外うまくいってたり、などでこの形がいまも続いてます。
「男の側が育児を受け持っても別に困らないな」「男が外、女が内といった固定観念にとらわれることはないんだな」と自分自身の体験から実感できたのは、私には新鮮でした。
  ただし育児自体は想像以上に大変でした。とりわけ二歳、三歳のころの育児は厄介で、毎日へとへとになってました。喜びや楽しいことより、つらさやうんざりすることの方がずっと多かったし、充実感よりは、負担感の方がよほど大きかったです。
  年子二人の育児が最も大変だったころ、私は三十代の後半でした。同年代の友人達は、係長になったとか、こんな仕事に取り組んでるとか、社会で中堅として活躍しています。一方私は、幼い二人の子を相手に、ごく狭い生活範囲での育児づけの毎日です。世間と没交渉の寂しさや疎外感、社会から取り残される焦りや不安感はかなり強かったです。特にきつかったのは落ちこぼれ感でした。
  育児は家庭ではとても大事な役割ですが、社会のために何かしてる、と言う気持ちにはなかなかなれません。ことに男が携わってると、「えっ、男が育児?」と胡散臭げに見られたり、遠慮のない相手だと「かみさんに食べさせてもらってるのか?」と言われたりします。自分のやってることに誇りが持てないのはしんどいものです。同窓会の通知が届いても、行く気にもなれませんでした。「いま何をしてる?」「毎日育児づけだ」、そんな会話は交わしたくありませんでした。
  私にとって「精神面で危い時期」だったかもしれません。そんなとき一冊の本に出合いました。茨木のり子さんの『自分の感受性くらい』という詩集です。毅然とした美しさに満ちた簡潔な表現。きっぱりとした物言いの爽やかさ。私はたちまち魅了されました。
〈ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて〉
〈自分の感受性くらい/自分で守れ/ばかものよ〉
  すがすがしい風が心の中をさあっと吹き抜けていく気がしました。「なに疲れた顔してるのよ。もっとしゃきっとしなさい」と叱られたように思いました。そして茨木さんのほかの詩集も続けて読んでいくうち、『落ちこぼれ』という詩が目にとまりました。
〈落ちこぼれにこそ/魅力も風合いも薫るのに/落ちこぼれの実/いっぱい包容できるのが豊かな大地〉
  落ちこぼれを肯定してるのです。落ちこぼれないための努力を「ばかばかしい修業」とも言ってます。私はハッとしました。世間の少数派であることになぜ後ろめたさやひけめを抱いてるのか、自分は自分でいいではないかと、胸のもやもやが消えた思いでした。
  その詩はこう結ばれています。
〈落ちこぼれ/結果ではなく/落ちこぼれ/華々しい意志であれ〉
  たしかにいまは社会的な地位や肩書きもなく、仕事で世の中に貢献することもなく、世間的には落ちこぼれかもしれません。しかしそれは自分で選んだこと、自ら選択した生き方なのです。そう思えばいいと茨木さんの詩に教えられたとき、どんなに救われた思いがしたことでしょう。あのときの、目の前に漂う霧がさあっと吹き払われるような思いは、いまも忘れられません。
  とは言えその後も、少数派の生き方をしてることで世間に対して言い訳めいた気持ちや劣等感を抱くことは度々あります。けれども茨木さんの詩を知って以後は、めげたり挫けそうになったりしたら、「自分の意志で選んだ落ちこぼれ」だと思うようにしています。
  私にとって茨木さんの詩集に出合えたことは、砂漠でのどの渇きに苦しんでいたときにオアシスにたどりついたようなものです。

このページの上部へ
 
 

真冬の記憶 岸田 重夫・48歳・東京都

一冊の古い本を、大切にとってある。
 「今昔物語」
  四十数年前、幼かった私が世話になった、初めての本である。
  何度も何度も、めくり返した跡。手垢や落書きで汚れ、こげ茶色に変色し、ところどころ破けて、ぼろぼろだ。
  この本には、今は亡き母の思い出が、詰まっている……。
 
  北信濃の私の生家は、冬になると、二メートルを軽く越す、豪雪地帯の農家だった。
  そのため、父は、長い冬の間、出稼ぎに行くことで、貧しい家計を支えた。
  その間、家を守るのは、母の役目だった。
  幼い子供らは、父のいない寂しさを、母にぶつけては、困らせた。
  深い雪の中、女一人で、足が不自由な年寄りと、手のかかる男っ子二人も抱え、母はどんなに大変だったろう。
  そんな子供らも、夜になると、母のそばにしっかりはりついて、離れなかった。
  北側の角にある、小さな部屋が、母子の寝室だった。北風は、容赦なく襲ってくる。
  ざざあざあ! ざざあ!
  吹雪がぶつかる音に、子供らは怯えた。家が、つぶれてしまうんじゃないかとさえ、思った。
  こわくて寝つかれない時、母はよく、“むかしばなし”をしてくれた。
  「むかあしむかし、あったっちゃ……」
  子供らは、その子守歌で、眠りについた。
  雪片付けや内職、年寄りの世話、翌朝のしかけでくたくただった母がしてくれた、精一杯のやさしさ。
  しかし、田舎育ちの母は、それほどたくさん、“むかしばなし”を知らなかった。
 「それ、こないだ聞いたで」
 「もっと、ちがうのやって!」
  くり返し聞く話に、子供らが飽きてきた頃、母は一冊の、ぶ厚い本を買ってきた。
  「なにこれ。なんて読むん?」
  「こ・ん・じゃく、も・の・が・た・り」
  「おもしれ本なんか?」
  「ああ、おもしれ話、いっぺえだっちゃ」
  まだ、字なんて、まともに読める年ではなかった。難しい字ばかりで、おもしろそうには、みえなかったからいった。
  「おら、こんなの、いらねや」
  一円だって、余裕のない家だった。
  母が内職で稼いだ、わずかな収入をやりくりして、買ってきてくれたというのに。
  母は怒らなかった。
  「まあ、聞けさ。今は昔……」
  そして、静かに読み始める。たちまち子供らの耳はくぎづけになった。
  その本は、おどろきの箱だった。
  おかしな話やこわい話、悲しい話に不思議な話。どれもこれも、聞いたことのない“むかしばなし”ばかりだ。
  母の読み聞かせは、実に心がこもっていたのだろう。
  子供らは、雪嵐のこわさも忘れ、物語の世界に、はまってしまった。
  「今は昔……」で始まるところは、母に頼んで、「むかあしむかし、あったっちゃ……」に、時々変えてもらった。この響きが、あったかくて、好きだったからだ。
  「かあちゃ、おらが読んでやる」
  「ほんとか? じゃあ、読んでくれや」
  「いまはむかし……、えーと、えーと……。これ、なんて読むん?」
  本は、出稼ぎの父や、遠い春を待つ子供らの、最高の友達になった。
  やがて、子供らは成長とともに親離れして、本もいつしか、忘れ去られた。
  再会したのは、数年前。帰省の際、物置の奥で眠っていたのをみつけた。やたらと懐かしくて、何回も手で拭いてやった。
  「なあ、かあちゃ。この本さ、もらってっていいかな?」
  年老いて、すっかり小さくなった母が、うれしそうにうなずいた。
  「ああ、いいさあ。持ってけや」

  その母は今年、春を待たず、雪と一緒に旅立ってしまった。
  「かあちゃ、あん時は、あんとな」
  幼い頃の、お礼のことばは、とうとういえずじまいだった。
  時々、本を手にとり、そっと開いてみる。
  「むかあしむかし、あったっちゃ……」
  やさしく、語りかける、あの母の声が、聞こえてくるような気がする。

このページの上部へ
 
 

タツの「理解」 杉谷 孝枝・33歳・愛知県

 タツ・十四歳。
  かつて私が担任した三年二組の暴れん坊である。教職員は皆「タツはどうにもならんねぇ。」「かわいそうな子よ。」とあきらめ半分で彼を見ていた。「かわいそう」の理由は学力の低さである。タツだけではない。生徒のほとんどが、小学時代に学級崩壊に悩まされ、小学校課程もろくに終わらない状態で進学してきていた。
  それでもここは公立中学校。指定された教科書を使って授業を行わなくてはならない。途方に暮れながら開いた教科書「光村・中三国語」の冒頭には、辻まこと氏の「山上の景観」が載っていた。
  若き辻少年が富士山に登った際、ご来光を見て「辞書には載っていない『セカイ』というものを理解した」という、たいへん感動的な内容である。しかし、如何せん、この生徒たちに理解できるであろうか。
  授業一時間目。私は早くも挫折しかけた。
「先生がまず一回読むからね。読めない漢字には、教科書に全部ふりがなをつけるんよ。」
  そう言って読み始めると、すぐに
「先生、速い、速すぎ」
 と、ストップがかかる。
「ごめんごめん。じゃ、次、読むよ」
しかし、すぐにまた
「先生、速すぎるって」
 と言われる。何が速いのかと不思議に思って生徒の教科書を見ると、大半の生徒が、ほとんど全ての漢字にふりがなをふっているのだ。
「あ、先生、呆れてる。呆れてるやろ」
  私の表情を見た生徒がペンをぽんと投げ出して、ふてくされたように言った。
「どうせ俺らのこと、バカやと思てるやろ」
  慌てて私は言い返した
「そんなことないよ。そんなこと…」
  一人、えんぴつを置き、二人、教科書を閉じ…。皆はやる気を無くしていった。
「どうせ、俺、できんしな」
「俺、どうせ、高校行かんし」

 その夜、私は一つの決心をした。「山上の景観」を十分に理解できるまで、次の教材には進まないということだ。年間指導計画には背くが、彼らの口から出た
「どうせ、俺、できんしな」
という言葉が、私にはどうしても引っかかった。「理解できる」喜びを彼らに味わわせたい、という思いが心底沸いてきたのだ。
  国語の授業は週四時間、ほぼ毎日ある。翌日の授業で、私は「山上の景観」の「ひらがな版プリント」を配布した。そして、すらすら読めるようになるまで、繰り返し音読するよう指示した。
「センセ、こんなことしてたら、中間テストの範囲が作れないよ」
と、ある子は笑った。私もやけくそで笑った。
  次に、一語一語辞書を引くように指示した。時間がかかっても構わない。先生に聞いても構わない。納得がいくまで辞書を引くようにと言った。
  基礎ができてやっと内容理解である。富士山の写真やご来光の様子など、ありとあらゆる資料を集めて、必死の授業。やっとの思いで「山上の景観」が終わったとき、なんと二十時間以上も費やしていた。破格の時間配分である。しかし、彼らは皆、自分なりに理解し「この話、いいね」と笑顔で言った。タツも「こんな内容だったんだ。初めて教科書の内容が分かった…」と小声で呟いた。

授業の締めに、私は一つの宿題を出した。
「皆だって、辞書に載っていない『理解』をしたことがあるでしょう。なんでもいいから、一つ、探しておいで」
  宿題もろくにしない、できない彼らに出した宿題。そんなに期待はしてなかったのだが、彼らの意見には目を見張るものが多々あった。
「野球」…辞書では「九人でする球技」だが、体験から得た理解は「自己中禁止、我慢」。
「恋」…辞書では「人を愛しく思うこと」だが、体験から得た理解は「苦しくて、悲しくて、心の実がはじける感じ」
などというものまであった。
  そしてタツ。彼のノートには、へったくそな字で
「教師」…辞書では「物事を教え、諭す人」だが体験から得た理解は「生徒を最後まで信じてくれる人、生徒を思ってくれる人、とあった。
  不覚にも目頭が熱くなった。タツの言う、「教師」が私だとは決して思わない。しかし、タツの心の中に「信じて欲しい」「僕にもできることを教えて欲しい」という気持ちがあったことは確かだろう。
  私は、タツの気持ちが痛いほど伝わってくるこのノートに花丸をつけて返却した。タツは少し頷いて、両手でノート受け取った。
このページの上部へ
 
 

車いすでの入学 大西 映子・43歳・三重県
 七年前、私は息子の小学校入学に直面し、悩んでいました。息子は922グラムという超未熟児で生まれ、生後一ヶ月の心臓の手術が元で両足が動きません。NICUを出てから何度も入退院を繰り返し、ようやく落ち着いた暮らしができるようになってきた頃でした。おしゃべりの大好きな人なつっこい子で、地元の保育園ではできないながらも他の子と同じように遊びたがります。養護学校は通学バスが往復四時間かかるうえ、見学に行った息子は重度の子らの授業にあくびを連発して帰りたがりました。そこで地元の小学校に入学させることを決意して入学交渉に当たったところ、すんなり入学が認められました。すでに保育園から話を聞いた小学校の先生が何度も様子を見に来てくれていたのです。「この子なら大丈夫」。就学相談でも太鼓判を押されました。
  これでひと安心、と思ったのも束の間。後から後から不安が押し寄せてきます。「本当にこれで良かったのか」と。受け入れ先は田舎の小さな小学校。肢体不自由児を受け入れるというのは百年以上の歴史を持つ小学校にとって初めてのことです。
  驚きと困惑の表情を浮かべてじっと見つめられる。「かわいそうになあ」とこそこそささやかれる。なぜ足が不自由なのかと根掘り葉掘り聞かれる。数少ない車いすでの外出時に何度も経験したことが浮かびました。保育園では屋内をずりばいして過ごしていたので、まだ歩けない幼少の子とだぶるのか、「いつ歩けるようになるのかな」と思っていた子も多かったようです。それが入学と同時に車いす生活となります。さぞかし学校の中で目立つでしょう。
  過度の哀れみに保護・干渉、そしていじめ。これまでの障害者の本を読むと避けては通れないこととして書かれています。そんな著者達は泣きながらも屈せず、りっぱに成長しています。しかし私は、手術で、治療で、今までに数え切れないほど泣いてきた息子の涙をこれ以上見たくなかったのです。「今ならまだ養護学校に行かせることもできる」。この思いはどんどんふくらんでいきました。
  そんなさ中に「五体不満足」が出版されました。手足の存在さえ分からない筆者がまぶしい笑顔で電動車いすに乗っている表紙のなんとも印象的な本でした。ドキドキしながら読んでびっくりしました。私が理想とする学校生活がそこに書かれていたからです。息子に可能な限り皆と同じ経験をさせて欲しい、でも無理だろうな。障害児として特別に扱うのでなく皆が一人の生徒として接して欲しい、でも無理だろうな。まだまだ日本の人権意識や学校教育は遅れているからこんなことを望む方が間違っているのだろうな。初めから決めつけて諦めていたことが現実に行われていたのです。十年以上も前に。
  さらに衝撃を受けたのは、彼が暗さを微塵も感じさせない文章で「障害は個性であり、不便ではあるが不幸ではない。ぼくも友達も時々ぼくが障害者であることを忘れてつきあっている」と書いていることです。
  私自身は障害を持っていません。だから障害者の気持ちや生活については想像するしかありません。私にとって障害を持っていることは不便で不幸なことに思え、いつかは息子から「こんな体で生まれたくなかった」と言われるのではないかとおびえていました。また、健常者と障害者が共に育ってもその差が顕著になるにつれて溝ができ、本当の友達はできないだろうと悲観していました。その考えを筆者によって覆されたのです。長年苦しめられていた呪縛から解き放たれた思いでした。
  しばらくして小学校から依頼がありました。息子の入学に当たって六年生になる子供達に要望や注意点などを説明に来て欲しいということでした。さっそくこの本を携えて行き、ひとしきり話した後に見せて言いました。
「私は息子がこの本に書かれているような学校生活が送れたらいいなぁと思いました。よかったら皆さんも読んでみてください」。
  ところが子供達の反応が微妙におかしいのです見かねた担任の先生が教えてくれました。
「お母さん、実は子供達はすでにその本を読んであります。それを読んだからお母さんの話を聞きたいと思ったのです」
  とまどいと、喜び、勇んで本を見せた恥ずかしさでその後どんな話をしたのか覚えていません。「もう悩まなくてもいい」、そう思ったことだけ覚えています。
  今、息子は中学一年生です。一人で車いすに乗って地元の中学校に通うほど逞しくなりました。息子と本の中のオトちゃんは障害も環境も違うのに、その学校生活は驚くほど似ています。でもそれはある意味当然かもしれません。この本を読んだたくさんの人達が、息子にオトちゃんのような学校生活を送らせてあげたいと思ってくれるのですから。
読書推進活動
家の光童話賞
地上文学賞
ちゃぐりん感想文
「読書エッセイ」募集
全国農村読書調査
読書フェスタ&読書ボランティア養成講座
読書ボランティアスキルアップ講座
このページの上部へ
プライバシーポリシー このサイトについて
Copyright All rights reserved. IE-NO-HIKARI ASSOCIATION.