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HOME > 読書推進活動 > 第4回「家の光読書エッセイ」入選作品

読書エッセイ 入選作品

第4回入選作品(敬称略)
   
家の光読書エッセイ賞
 
幻の「野菊の墓」写本 福岡県 柿本 稔
   
優秀賞
 
背中をひと押ししてくれた本 千葉県 小川 栄
怪人二十面相  愛知県 竹内祐司
プレゼントは絵本 鹿児島県 吉峯奈緒美
   
佳作
 
子守歌がわりの朗読 神奈川県 鈴木治雄
読みごろ、お年ごろ    新潟県 東やす子
父からの贈り物     岐阜県 林 祥子
わが人生、レ・ミゼラブルあってこそ 高知県 芦田豊喜
手にしたひとつの物差し 中国 北村美帆子

第3回第5回第6回の入選作品はリンク先を参照してください


家の光読書エッセイ賞

幻の「野菊の墓」写本 柿本 稔・72歳・福岡県

 書店のレジで本の代金を払う時、頭を下げて「ありがとうございます」と言う私に、店員は怪訝そうな顔をする。客の方から礼を言うのは確かに一般常識からすれば、おかしいかも知れないが、私は本を手に入れるたびに感謝の念を禁じ得ないのである。
  この本を書いた著者や編集者はもちろんのこと、印刷や製本に係わった人、そして流通の関係者、多くの人々の手を経て今私の手の中にある。ありがたい。私がそういう気持ちになるのには訳がある。
  あれはもう六十年も前のこと。太平洋戦争が終わった時、私は中学生であった。食べる物も着る物もろくになく、はだしで学校に通っていた時代、本屋に行っても進駐軍との会話の手引き書か大人向けの低俗な雑誌ぐらいしかなかった。
  友達の間で、手に入った本をお互いに貸し借りして回し読みをしながら、わずかに活字の飢えをしのいでいた。そんなある時、私のところに回ってきたのが、「漱石の読書と鑑賞」という本であった。その中に出てきたのが伊藤左千夫の「野菊の墓」である。
「野菊の墓は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百ぺん読んでもよろしい」。漱石が伊藤左千夫にあてた手紙と記されてあった。
  年上の民子を想う少年政夫の初々しくも、切々たる心情が淡々と書かれた文章に、激しく胸を打たれた。拭いても拭いても涙があふれて何度も洗面場に立って顔を洗わなければならなかった。
  学校の勉強もそっちのけで、繰り返し繰り返し読んだ。友達から返却の催促があったが私はどうしても、この本を手放す気になれなかった。しかし、返さない訳にはいかぬ。友達に無理を言って、もう暫くの猶予をもらった。全文を書き写す決心をしたのである。
  文具店のおばさんに事情を話したら、えらく感心して、役場に納める分の紙を少し横流ししてくれた。枚数を節約するために表裏両面を使うことにした。
  ペンもインクもない当時のこと。父の使い古したガラスペン先を、細い篠竹を切ってきてはめ込み、空き瓶に綿を詰め、墨汁を入れて準備を整えた。
  毎日学校から帰ってくると、こつこつと書き写していった。中指にペンだこができて赤く腫れた。包帯を巻いて必死に書き続けた。夏休みに入り、時間に余裕ができて能率が上がった。八月のなかば遂に写し終わった。借りていた本を友達に返しに行った。しびれを切らして返却を待っていた。彼も人から借りていたのである。
  だが、全文を書き写したと聞いて彼は驚いた。そして、画き古した画用紙で表紙をつけてくれた。こうして「野菊の墓」の写本は学校の中で噂になり、友から友へと渡って行った。ところが、いつの間にやら行方不明になった。あれだけ苦労して書き写した本がどこに行ったか分からなくなったとは残念でならなかった。
  還暦を過ぎた頃から、頻繁に同窓会が行なわれるようになった。そのたびに「野菊の墓」が話題になった。もう一度あれを見たいという声がしきりであった。お互いに馬齢を重ねて青春時代が恋しくなったのであろう。
  今、書店に行けば「野菊の墓」は文庫本で三百円足らずで買える。しかし、あの写本は銭金の問題の物ではなく、我々の青春の貴重な思い出の代物である。
  何年か経って、古希記念同窓会があった。その席上で一人の友が鞄から古びた封筒を取り出した。あの幻の「野菊の墓」であった。家を建て替えるため、荷物を整理していたら出てきたと言う。友人達の間では目に涙を浮かべて懐かしむ女性もいた。
  紙は赤茶けて今にもぼろぼろになりそうであるが、文字はくっきりと六十年の昔のままであった。扇風機もなく、額の汗を拭いながら、蚊に食われ机にしがみついてガラスペンを走らせた少年の頃が鮮やかに甦ってくる。
  どんな時代になっても、人間の心にとって本はなくてはならぬ物である。人生につきものの喜びや悲しみを教え、生きる道筋を指し示してくれる最良の師であり友。それが本である。今はそれがわずかな金額で簡単に買えるのである。
  本代を払う時、「ありがとうございます」と頭を下げずにいられないのは、一冊の本を手に入れるために、あれだけ四苦八苦した頃のことが忘れられないからである。


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優秀賞

背中をひと押ししてくれた本
小川 栄・47歳・千葉県
 そのころ、結婚しようとほぼ心を決めつつも、私にはまだ迷いがあった。理由が二つあった。相手に聴力障害があるが、「きこえない世界」というのは私にはよく理解できない。それで大丈夫だろうか、ということ。もう一つは、相手が子どもを持つことに怖れを抱いているので、結婚しても子どもを持たないことになる可能性が高い、ということ。もちろん、望んでも子どもを授からない夫婦は世間に多いが、結果としてでなく、最初から「子を持たない人生」になりそうだ、となると、容易には決断しにくいものがあった。
  私は三十二歳だった。三十代に入ってから、きっかけはよく覚えてないが手話講座を受講し、聴力に障害を持つ人たちと交流するようになった。そんな中で一人の女性と出会い、次第に結婚ということも意識するようになったが、結婚となると、友人としてつきあうのとは、当然ながら全然違う。
  私は三十年間余り、聴力の障害だけでなく、障害のある人と関わりを持ったことが殆どなかった。身近にいなかったからだ。だから、障害者と健常者が協力し合って仲良くやっていくのがもちろんいいと頭ではわかるし、バリアフリー社会とかノーマライゼーションとかの言葉も知っていたが、そういった理念と、実際にハンデキャップを持つ人と家族になるということには多少の懸隔があった。
  何か不安なのだ。「聴力は百デシベル程度。補聴器をつければ大きな音の存在はわかるが識別はできない。補聴器を取ると殆ど音が入らない」と言われても想像しにくい。私の場合、寝ていても聴覚は働いている。もしサイレンや大きな叫び声があればわかる。しかし聴力障害者は、目を閉じると、闇の中にいるだけでなく、全く無音の世界だ。ずいぶん違う。そんなふうに相手の状況がよくわからなくて、うまくやっていけるのだろうか?
  周囲に、きこえる人ときこえない人という組み合わせの夫婦は何組かいた。ただ私が知ってる範囲では、健聴者の側が「手話通訳者か、それと同じくらい手話のできる人」だった。私は、初級クラスを受講した程度で日常生活で使えるようなレベルにはない。コミュニケーションの問題も大きそうに思えた。
  その上、結婚しても子どもが持てなそう、ということがあった。子どもはいらない、好きでない、という人もいるだろうが、私は、できれば欲しい、と思っていた。
  相手の女性は三歳で原因不明のまま聴力が低下していった。そして自分だけでなく、弟も一歳で原因がわからずに聴力を失っていた。自分だけでなく弟も、ということで彼女は遺伝を心配し、「私のようにきこえない子が産まれたらかわいそう。だから私は子どもを持てない」と、中学生のころから思っていたそうだ。その思いは、私にはわかるようであり、心配しすぎのようにも思えたが、長年の思いに対して、安易に杞憂だとは言えなかった。
  ただしきっぱり拒絶してるわけでなく「怖れを抱いている」状態なので、心境が変化すればいいのだが、そのとき彼女は三十六歳だった。気持ちが和らぎ、産む勇気が生じるのを気長に待とうとも私は思いにくかった。
  そんなこんなで私が迷っていたとき、書店の本棚で『こころで聴く』(田中のり子著)を見つけた。買って帰るとすぐに読み、読み終えるともう一度読んだ。著者の田中さんは手話通訳者で、ご主人の順さんは、十四歳のときの事故がもとで聴力を失った中途失聴者だった。田中さんは、父親に強く反対されながらの結婚、貧しい新婚生活、風景カメラマンとなった順さんとの二人三脚での撮影行などを、さわやかな筆致でつづっていた。
  田中さんは、この本を書いたときはもう手話通訳のベテランになっていて、きこえない人たちのこともよく知っておられたが、結婚のときは、順さん以外にきこえない人は知らず、もちろん手話も全く知らなかった。夫婦の会話は、筆談や空中文字だった。それでもどうにかなるんだなと私は思い、肩の力が抜ける思いがした。こんなふうに、いろいろな障害があろうと自分たちの生き方を通す、それでいいじゃないか、と素直に思えた。
  そして本を読みながらわかったのは、私はもうあらかた気持ちを決めてるんだな、ということだった。結婚しようとほぼ決めている。ただ、何かに背中をあとひと押ししてほしい、そんな気持ちが既にあって、多くの本が並ぶ棚からこの本を見つけたに違いない。
  ほどなく私たちは結婚し、妻の「子を持つことへの怖れ」は意外に早く薄れていった。遺伝の心配が氷解したのではなく、きこえない子が授かったらそのときはそのときで一所懸命育てればいい、という気持ちに二人ともなれたのだ。高齢出産で帝王切開になったが、二人の子を無事授かることができた。娘は中二、息子は中一、ともに元気に育ってくれている。二人とも、聴力は正常だった。

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怪人二十面相 竹内祐司・41歳・愛知県
「ただいま!」
  仕事を終え、玄関の鍵をあけて家に入る。以前なら家の奥から、だっだっだっだっ!と音がして、娘が飛びついてきた。
  娘は今、中学生。いっしょにお風呂に入らないと言い出した小学校五年生のころから、飛びついてこなくなった。
  それでも笑顔で“おかえり”は言ってくれていたのに、最近では目もあわさない。
  台所で晩御飯のしたくをしている妻だけが、振り向いて、おかえりを言った。
「大丈夫かなあ。あいつ、不良になるんじゃないだろうなあ」
  私がそう言うと、妻は、“何?”という感じで振り返った。娘のことを言うと、くすっと笑ってまた料理に戻ってしまった。
「そういう年頃なのよ。あなたも経験あるでしょう。親がうっとおしくて仕方がなかった時が。何もかわっちゃいないわよ」
  そう言って笑っていた。そうかなあ。私には、そうは思えなかった。
  娘の部屋には、ドアがないので、私はのぞいてみた。何やら本を読んでいる。珍しいなあ。いつもはマンガばっかりなのに。
  私の気配に気づいたのか、娘は、振り向いた。
「何?! 何か言って入ってきてよ。びっくりするじゃない」
「そんな、かみつくみたいな言い方しなくてもいいじゃないか」
「かみついてないわよ」
「いいや…かみついてる」
「知らない!」
  娘は、そう言うと、目線を本に戻した。ほら、やっぱりおかしいよ。私はそう思った。
  ああ、寂しい。あんなに優しかったのに。そう思って部屋を出ようとして、ふと娘の手元に目をやった。あれ? その本は…。
「おい、それって、江戸川乱歩のやつか?」
  娘が驚いたように向き直った。
「そうだよ。どうして知ってるの?」
  江戸川乱歩の少年探偵シリーズは、全四十巻近くあるが、私は小学生のころ、夢中になって読んだので、ほとんどの作品は、記憶に残っているのだ。
「へえ、お父さんも、これ、読んだことあるんだ。図書館でたまたま見つけておもしろそうだから読んでるんだけどさあ」
  そう言う娘に、私はあらすじを話した。
「そうそう。そうなんだよ。今ね、小林少年が二十面相につかまって地下室に監禁されてるの。それでね、小林くんが取り戻した宝石を一つずつ、ごはんと交換したんだよね」
  娘の目が輝いてきた。私もなんだかうれしくなって、シリーズのほかの作品のこともいろいろ語りはじめた。なんといっても、娘と同じ年のころ、胸を躍らせて本気になって読んだシリーズだ。こちらの説明にも熱が入るというものだ。そうやってうんちくをかたむけていると、突然、娘の表情が笑顔になった。
「じゃあさあ、お父さん、ピッポちゃんって知ってる? 小林少年の七つ道具の一つだけど…」
  ピッポちゃん? 何だそりゃ。そんな七つ道具ってあったっけ。私は、必死に考えたが思い出せない。ピッポちゃん? ロボットやコンピュータがあるわけないしなあ。
  すると娘は、にやにやしながら
「降参?」
  私は、本気で悔しかったが、わからないものは仕方ない。うなずいた。すると娘は勝ち誇ったように言った。
「伝書鳩だよ」
  ああ! そうだった。伝書鳩。小林少年が地下室から、明智小五郎にメッセージを書いて放ったのだった。偉そうに、明智小五郎博士気どりだったのに、そんな大事なことを忘れているとは。ああ、これでまた軽蔑される。
  そう思ったが、娘はあいかわらず笑顔のままだった。そして言った。
「お父さんったら、子供みたいだね。むきになってさ」
  ひさしぶりに見る娘の笑顔。それは、以前の屈託のなかったころと何一つかわっていなかった。
「今度はお父さんがリベンジしてやるからな。待ってろよ」
  と言って、私は娘の部屋を出た。
「いつでもどうぞ! 受けてたつよ」
  娘のうれしそうな声が背中で聞こえた。“そういう年頃なのよ。何もかわっちゃいないんだから”という妻の言葉がよみがえった。ほんとだな。私は一人苦笑した。
  センチメンタルだった数ヶ月を明智小五郎と少年探偵団が救ってくれた。まさか、彼らも、自分たちがこんな形で事件解決をするだろうとは思ってもみなかっただろうけど。
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プレゼントは絵本 吉峯奈緒美・37歳・鹿児島県
 私の息子七歳、今年の四月から小学校の一年生。末っ子(高二と中三の姉が二人)のためか家の中ではなかなかの甘えん坊で、私にくっつきまわり、抱っこやおんぶをせがんでくる。それが小学生になってからは少々プライドがあるようで、周りに人がいる時は「お母さんなんてフン!」とそっけない。これからそうやってどんどん甘えなくなるんだろうなと思うと、母親としては成長を感じたり、少し寂しさを感じたり……。
  そんな息子と寝る前に必ずしている事がある。二人並んで布団に入り絵本を読む事だ。これが私達にとってなかなか心地いい時で、さっきまでギャアギャアとうるさかった私の声は、別人のように優しい声で語り出し、暴れまくっていた息子も、別人のように落ち着きキラキラした瞳で絵に見入っている。寝る前の読み聞かせは、二人の娘達が小さい時からずっと続けていたから、息子にとっては私のおなかの中にいた時からの習慣になる。そのせいかどの子も本好きで、本は家族の共通の楽しみである。
  さて、今年の二月の私の誕生日。三人の子ども達からのプレゼントは絵本だった。私が好きで前から欲しかった、『あらしのよるに』と『あるはれたひに』の二冊だった。これは二、三年前あるブックトークの時に紹介されて以来大好きになった本だ。本屋さんに行くたびに手に取って見ていた。一緒にいた息子に「これね、とてもおもしろい本なんだよ。お母さん大好きなんだ」と何度も話していた。
  子ども達三人で、何をプレゼントするかを話し合った時に「お母さんが好きな本!」と言う息子の主張でこれに決まったという事だった。ただ、この本は六冊シリーズになっているため、何冊買うかでは相当もめたようだ。
「六冊全部!」と訴える息子に、娘達は「お金が足りないから今年は二冊くらいにして、あとはまた来年ね」と説明したらしい。そのうちに「お母さんにお金を貰えば買えるじゃん」などと訳のわからない事まで言い出し泣きじゃくる弟を姉二人は、やっとやっとなだめて二冊買ってくれたそうだ。小さな絵本だけど、その中に子ども達の思いやりがいっぱい詰まっていた。そして息子が私の言葉を心に留めていてくれた事が何よりうれしくて、この絵本は私の宝物となった。この幸せな誕生日の夜、寝る前の布団ではもちろん、この二冊の絵本を楽しんだ。
  よかった、めでたしめでたし。と話を終わるところだが、これにはもう一つうれしいおまけがついていた。
  小学校に入学してしばらくたったある日、学校からいつものように帰ってきた息子。手さげ袋がやけに重たそうだった。汗をいっぱいかいた顔で、「あのね、お母さん。今日から一年生も図書室の本を借りていいんだって。だから、ほら」と二冊の本を差し出した。それは『あらしのよるに』シリーズの『くものきれまに』と『きりのなかで』だった。「これあの続きだよね。順番合ってる? 一回で二冊しか借りられないから、他のはまたあとで借りてくるね」とニコニコ笑顔の息子。「ありがとう。うれしいな」。そう答えた私もニコニコと自然に笑顔になった。あぁうちの子ってなんてかわいんだろう。(親バカだけど)我が息子がかわいくてたまらなかった。もう夜まで待てずに、すぐに息子を私のひざに抱き二人でその二冊の絵本を楽しんだ。
  この後、息子はきちんと約束を守り、残りの二冊も借りてきてくれた。息子自身はシリーズものを読むのは初めてだったので六冊読み終えた時は充実した満足した顔になっていた。これでまた少し成長したかな?
  以前は、成長を感じると同時にそれ以上の寂しさを感じていた。きっと子どもが離れていく事がこわかったのだろう。でも今は違う気がする。子どもが離れていくのは寂しいが、こわくはないからだ。本を通して息子とちゃんとつながっている絆を、とても幸せな想いの中で感じる事ができたためだ。
  さて、来年以降の誕生日を密かに期待している私である。きっと何冊買うかでまたもめて、泣いたりなだめたりしてしまうんだろうな。本屋さんで騒ぎながら、それでもいっしょうけんめい見つけて三人で買ってきてくれるんだろうなぁ、と………(ワクワク)。
  今、あのプレゼントしてもらった二冊の絵本達は、本棚の一番いい所で、私達が手に取って読むのをいつでも待っていてくれている。小さいけれど思いやりのたくさん詰まった宝物の置き場所をあと四冊分その隣に、準備しておくことにしよう。

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佳作

子守歌がわりの朗読 鈴木治雄・49歳・神奈川県
 私が子どものころ、父は簡易宿泊所の管理人をしていた。
  私と母もそこに住む。
  日雇い仕事にあぶれた労働者たちが、昼間から酒を飲み、大声で騒ぐ。
  読書に適した環境とはいえなかった。
  狭い家の中には、国語辞典と、父の愛読書の宮本武蔵の文庫本だけがあった。
  小学生の時、わからないことを父に聞くと即座に答えてくれたが、私が中学生になると、辞書を引いてみろといわれるようになった。
  面倒だなと思いながらも、辞書を引く癖がつき、読書とはいえないが、けっこう楽しい読書の真似ごとになった。
  宮本武蔵の文庫本も時々読んでいたが、長編なので、読み通したことはなかった。
  父は若いころ料理人をしていたので、包丁さばきは鮮やかだった。
  宮本武蔵の剣のさばきに、包丁さばきを重ねて、愛読書としていたのかも知れない。
  ある時から、父が体調をくずして、入退院を繰り返すようになり、管理人の仕事ができなくなった。
  代わりに母が、建築現場の雑役婦として、働きに出ることになった。
  当時母は四十代半ば、辛い決断だったに違いない。
  中学生の私が朝起きると、すでに母は仕事に出ていて、夜は暗くなってから帰ってくる生活が続いた。
  今日はダンプの運転手さんにどなられながら、交通整理をした、今日はコンクリートの重いゴミを何度も運んだ…。疲れた体で用意してくれた夕食を共にしながら、母は淡々と話してくれた。
  へえーとか、ふーんと相槌を打ちながらも、私は母の大変さより、内向的な自分の性格に悩んでいた。
  人前で話すのが苦手で、教室の前に出て朗読する国語の授業は、特にいやだった。
  ある日の夜、夕食をすませた母が、子守歌がわりに、宮本武蔵の文庫本を読んでくれと、私にいう。
  なんで? 一瞬迷ったが、母が疲れていると思い、いわれるままに私は、母の耳元で朗読を始めた。
  五分もしない内に、母は眠りについた。
  母の寝顔が子どものようで、親子が逆転したように錯覚したが、それだけ母は疲れていた。
  母の大変さを思う気持と、自分の内向的な性格への悩みで、中学生の私の頭はいっぱいになった。
  それから毎晩、子守歌がわりの朗読を続けた。
  数週間朗読を続けている内に、私は母が、宮本武蔵のどこを好きなのか気になって、聞いてみた。
  父さんが読んでいた本だから…、それに、あんたが読んでくれると、安心して眠れるのよ…。母はちょっと考えながら、少し照れたように答えた。
  そうした日を重ねる内に、私は国語の授業の、朗読への苦手意識がだんだん少なくなっていき、人前でもなんとか朗読できるようになった。
  私は自分の中で、朗読に対する自信のようなものが、芽生え始めるのを感じていた。
  思わぬ効果だった。
  上手になったな、と先生もほめてくれて、そのことを母に話すと、すごく喜んでくれて、私の好物のいなり寿司を、疲れた体で作ってくれた。
  私はいなり寿司を食べながら、朗読を通して自分が少しずつ、少しずつ成長していくような感じに、包まれていた。
  それからも、母は建築現場の雑役仕事を、私は朗読を、続けた。
  そして病院へ父を見舞う時は、宮本武蔵の文庫本を持って行き、父の耳元でも朗読するようになった。
  父の病気は、少しずつ悪化していた。
  ベッドの上で、苦しそうな表情をすることが多い。
  だが私が朗読を始めると、うれしそうな顔をしてくれる。
  いい声だ、読み方もいい、気持よくて、子守歌みたいに聞こえるなあ、と父は目を閉じていった。
  励ますつもりの私を、父は逆に励ましてくれた。
  その父が、入退院を繰り返しながら、ついに亡くなる。
  私と母は、迷わず父の柩に、宮本武蔵の文庫本を入れた。
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読みごろ、お年ごろ 東やす子・48歳・新潟県

 読めた! 読めた! 何がって?
  大江健三郎氏の「万延元年のフットボール」が私に読めた!
  私は今四十八才。実は二十年程前、若い時に同じ本を読んだことがあるのだ。いや正確には読もうとしたのだ。どうしてその本を選んだのか、今となっては理由も定かではないが、たぶん谷崎賞を獲った作品だと聞いて、きっと面白いのだな、と軽く考えてのことだったと思う。ところがである。面白いなんてとんでもない。ページを開いて何ページも読まないうちに、こりゃ駄目だ、私にはとっても読みこなせない、と悟ったのだ。なぜかって? とにかく難しい。難解の一言である。一つの文章、さして長くもない文章。「。」で終るまでのほんの二〜三行の文章が、何度読み返しても私にはさっぱり意味が判らないのである。また逆に文章の意味は判るのであるがそれじゃあその意味がストーリーとどんな関係があるのか、それがどうしたのか、がまたまたさっぱり判らないのである。
  こうなるともう本は眠気を誘う為の道具にしかならない。当然のごとく私は読むことをあきらめた。確か三十ページも読めなかったと思う。そしてその時に私は固く決心したのである。大江健三郎氏の作品は二度と手にするまい、自分の頭脳では読みこなすことは無理だ、例え人生経験を積んだあと八十才になった時に読んだとしても理解することは絶対にできないな、と。
  ところがである。四十八才の今年の春、たまたま本を借りに行った図書館でこの本を見つけたのだ。と言うよりは目に飛び込んできた、と言ったほうがいいかな。それまでもその本は大江氏のコーナーの書棚に置いてあったのであろうが、大江氏の本は読まない、と決めていた私は大江氏の棚に目を向けることはなかったのだ。それがその時はなぜか目に飛び込んできたのである。挙げ句の果てに何を血迷ったのか、読んでみたい! とまでも思ったのだ。図書館の本であるから難しくて読めなかったら、そのまま返却してもいいや、という俗に言う駄目元の気持ちがあったのも確かである。こんな風にして私は気分の趣くままに二十年ぶりに「万延元年のフットボール」を再び手にしたのだ。
  そして駄目元の気楽さで何気なくページを開いて読み始めた。と、これが何と読めるじゃありませんか。いやー自分でも驚いた。
  しかも面白いじゃないの! ストーリーがちゃんと理解できるのだ。勿論全部が全部すんなりと読める、という訳ではない。たまに難解な文章に出くわして、何じゃこりゃ、と何回か読み直しもしたし、読み直しても結局理解できないままの文章もあるにはあったのだが、全体としての話の流れをつかむには影響もなくストーリーの展開を楽しむには充分に足りたのだ。今のこの私の読解力で。嬉しかった。本当に嬉しかった。本を読み終えた時に素直に「あー面白かった」と言えたこと、八十才になっても決して読みこなせないと思っていたのに最後のページまできちんと読み終えたこと、それは自分でも予想していなかったんだもの。
  図書館で大江氏のコーナーにふと目が向いたというのは私の内部で何か二十年前とは違うものが育っていたか? とニンマリしてみる。
  年令が若い時に読んでおけばよかった、という本がたくさんある。そのことを、しまった、と後悔しているし残念だとも思うが、かと言ってこの年になって読んでみようって気持ちにはならないしなあ。極端な例ではあるが「秘密の花園」を今更読めるかと言うことなのだ。一方でこうしてこの年令になって初めて読んでみようと思い読みこなすことができる本があることも事実だ。この本と出合えてよかった。
  たった一冊の本ではあるが私には大きな意味のある一冊であった。なぜか? だって私の脳ミソが二十年前よりは確実に進歩していた。それを証明するできごとだと勝手に思っている。二十年前読めずに投げ出してしまった本。それを面白く読めた今の自分。その変わり様を成長と言わずに何と言う、と単純な私は考えている。その成長を証明できたことが私には自分に対しての自信につながっている。
  もう二十年くらい経ったらもう一度読んでみようとも考えている。また違った読み方、理解の仕方ができるだろう。楽しみだ。
  若い人はいいな、若いモンには負けちゃうなということはいろいろな場面でたくさんあるのだが、年令を重ねていくことで得るものだってあるじゃない。そのことを実感している。この本を読みこなせたことで私が得たもの、それは、年をとるってそんなに悪いことじゃないな、と一人ほくそえんでいるのである。ウフフ。

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父からの贈り物 林 祥子・48歳・岐阜県

 戦後は遠くなりにけりとはいえ、まだ日本が貧しかった時代に私は生まれた。子供を除く家族全員が働いても、食べていくのに精一杯の暮らしであった。白いご飯こそ食べられるけれど、おかずは大抵自家製の漬物と赤だしに野菜の煮付け。肉や魚なんて滅多に食卓に並ぶことはなかったし、卵でさえせいぜい一家の中心である父のお膳に一つだけ付けられるだけで、私達が口にすることは年に数える程しかなかった。そんな暮らしの中で、趣味や娯楽に費やす余分なお金なんてどこにもなかった。それでも、周りが皆同じようなものだったから、私は恥ずかしいとか悲しいとは思っていなかった。
  私が小学生に上がる前の年に、母は三人目の子供を身ごもっていた。只でさえ苦しい生活が更に苦しくなるのを憂いて、母は産む事をためらっていた。産んだところで母親らしいことはできない。赤ん坊をおいて仕事に出なければ食っていけないのだ。私も年子の弟も殆ど祖母の手で育てられていたのだった。母親よりも、姑になついている吾が子を見るのは切なかっただろうと、今の私なら理解できるが、当時は未だそんな事は全くわからなかった。貧しくさえなければ…母は誰よりも貧しさを憎んでいた。
  産み月の近づいた冬のある日の事だった。外仕事である配管工は雪が積もると仕事にあぶれてしまう。父は、私が家に帰ってきた時にはすっかり酔っ払って上機嫌になっていた。
「どうや、幼稚園面白いか?」
酒臭い息を吹きかけ父が尋ねてきた。
「うん、本が読めるから楽しい。友達もいっぱいおるし」
と私は答えた。
「そうか、本が読めるようになったんか。賢いなぁ。よーし、お父ちゃんが買ったるわ」
  そう言うとフラフラと立ち上がり、私の手を引いて外に出た。買ってもらえるのは嬉しいが、その後の事を考えると怖かった。酔っ払っているだけでも喧嘩の種になるのに、本なんて買ったりしたらどんなに母の逆鱗に触れるかわからない。本など我が家には贅沢品だ。雪の道を何度も転びそうになりながら町の小さな本屋に到着した。同級生の家だったから何度か遊びにいったことがあった。父と一緒の私を見て、本屋の主人は怪訝な表情を浮かべた。まさか、私が本を買いにくるなんて考えてもいなかったのだろう。
「どれでも好きな本買ってええぞ。お父ちゃんが金払ったるで」
  店先で大声を張り上げる父が恥ずかしかったが、目の前に並んでいる色とりどりの絵本が私の目を釘付けにしていた。本なんて一冊も持っていない。買ってもらえたらいつでも読める。何度でも読める。なめる様に丹念に一つ一つの絵本を見ていった。そして、必ず値段表示を見ることも忘れなかった。高い。どれも、私にとっては信じられない程の値段であった。本を元に戻す度、どんどんしょげかえっていく私を見かねて、本屋の主人が売れ残りでいいなら半額でいいよと言ってくれた。差し出されたのは『人魚姫』の絵本だった。確かに厚紙の角の部分が少し擦れているが、半額なら文句はない。しかも、西洋の童話を読むのは初めてであった。表紙には少しもの悲しげだが、綺麗なお姫様の絵が描かれていた。本当に父がお金を持っているのかどうか少し心配だったが、ちゃんと支払ってくれたのでホッとしたのを覚えている。本屋の主人は半額にもかかわらずキチンと紙袋に入れて手渡してくれた。私はそれを両手でしっかりと抱えて家路を急いだ。あの時の本屋の主人の心遣いを、今でも忘れることはない。
  その夜、夕食を終えると私は母に呼ばれて両親の部屋へいった。酔っ払った父はすでに高いびきだった。怒られるのかな? と私はドキドキしながら母の様子をうかがった。
「お父ちゃんに本買ってもらったんやって? よかったなぁ」
思いがけない言葉に私は耳を疑った。
「本くらい欲しいだけ買ってやりたいけど、ごめんな。甲斐性なしやであかんわ。また弟か妹が産まれたらもっと買えんようになるで今日買ってもらった本を大事にしやあよ」
母の声は震えていた。
  いつだってお金のことしか頭にないような母を、私はどこか疎ましく感じていた。お金がないのは命がないのと同じと、いつも口癖のように言っていた。貧しくたって私は悲しくなんてないのに、何故こんなに母はお金お金と言うのだろう。どうせ今日の事だって怒るに決まってる。怒られたら本屋のおじさんに返しにいけばいい。友達のお父さんだし、いつも優しいからきっとお金を返してくれるだろう。そんな風に思っていただけに母の言葉は幼い心にもジンと沁みた。
  酔っ払った父からの贈り物はいくつもの宝物を一緒にくれた。私の生涯の中で、この絵本は最高の贈り物である。

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わが人生、レ・ミゼラブルあってこそ 芦田豊喜・95歳・高知県

 小学校をすむとKおじさん方で日雇として働いた。おじさんは百姓には珍しい読書家で家の近くの畑でも弁当持ちで昼休みや往復の僅かな時間も大切に本を読んでいた。ミカン作りも上手でラジオで放送したり、また東京から出ていたミカン専門書にもおじさん方のミカン畑の写真が出ていた。いつも私に「百姓が物を作っても体験だけでは十年かかる。本を見てやれば三年目には大抵成功だ」と教えてくれた。それで私も米は五石取りの稲作の本、ミカンは専門書で勉強した。山村の稲作は大抵反当り八俵位だが私は十一俵。ミカンはうまい、といって道路工事の人達が昼休みに買いに来てくれたこともあった。
  その頃、雑誌少年倶楽部の「ああ玉林に花うけて」などの立志小説で全国の読者好きの少年を熱狂させていた佐藤紅緑先生が「少年よレ・ミゼラブルを読め」と奨めてあった。しかし当時その本の単行本はなく二十冊以上も続く全集本で少年の身には手も足も出なかった。また、農村は不況で全く仕事がなく本など買う余裕は夢にも考えられなかった。
  村は失業対策に川の修復工事をやっていた。私は小学校をすむとそこへも働きに出ていた。日給七十銭、川へ入ると七十二銭。私は真先に川へ入った。三月一日からで水はまだ冷たく、また今のようなゴム靴はなく素足に草履だった。足がほとびて白くなった。上の提で焚火している大人達が「折々上り来て火に当れ」と声をかけてくれた。そして給料をいただくと古本屋へ飛んで行った。
  幸いに分け売りが見つかり半額の値段で手に入れることができた。そして片道二十キロの夜道を古自転車を踏んだ。街灯はなく凹凸の暗い砂利道でよくも無事に帰れたと思う。
  二十一歳。徴兵検査に甲種合格。翌年一月から二ヶ年間の入営の通知を受けた。漸く家事の手伝いができはじめた六人兄弟の頭の私が二年間留守になる。父母の苦労は思いやられた。翌年分も働いておかねばと、毎朝未明に山に出かけ牛の飼料の山草を刈って来ていた。或る朝の荷が重過ぎた。濡れ鼠となり汗が目に入り家に帰りつくと同時に草を担ったまま転倒。気を失った。気がつくとチフスと決まり村の避病院に入っていた。幸いに順調に病気は快復し二ヶ月位で退院した。或る日父が母に「春蚕の蚕代は全部豊喜の医者代に使ってしまった」と話しているのを聞いた。家の唯一の現金収入を私に使ってしまった父母の苦労、今思っても胸が痛む。
  年が明けて入営が始まった。友達は次々と入営していった。私は籤番号一つ違いで入営を免れた。その時私はレ・ミゼラブルの「天の摂理」の記事を思い出し手を合せて天に感謝した。
  今度の戦争では四十歳で召集された。無事帰ることはあるまいと思い改めて買ってあったレ・ミゼラブルの文庫本の一冊を持って行った。見つかると「敵国の本だ」と取り上げられるから隠しまわった。幸いに見つからなかったが栄養失調となり帰って来、続いて結核を発病した。当時結核は不治の病気として恐れられていた。一家の働き主の私が倒れては大変と懸命に養生に当った。戦争は終ったが物凄い物資不足と物価高で私は食い盛りの二人の子供を抱え配給米の生活で、僅かな貯金も見る見るうちに使い果し二年目の暮には無一物となった。金は無くなり病は癒えず子供はミカンを盗んで隣からは怒鳴り込まれる。毎日ため息ばかりで或る時は頭が変になり現世とはお別れと思う日もあった。その時唯一の頼りはそのレ・ミゼラブルの本だった。不幸な主人公が哀れな少女を救い出し幾度も死線をくぐりながら数奇な運命に負けず生き抜いて行く物語りはどれ程か慰め励ましてくれたかと思う。そのうち漸くできた農協病院にレントゲンが来たと聞き診ていただくと「治っています」といわれ夢かと思った。
  人生観が一変した。健康第一、金や名誉は二、三の問題と思い始めた。幸い健康については西式健康法を続けていたし、それを機会に一層精出した。また思いがけなく病気も快復したので少しでも皆様にご奉仕と思ってレ・ミゼラブルにある「施しをする乞食」を真似て粗末な風体でスーパー前でミカンを老人や子供達にやっていたら警察の方に二度も声をかけられたこともあった。そしていつの間にか九十歳の半ばとなった。僅かながらも読み書きができている。皆、読書のおかげだと感謝に堪えない思いである。

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手にしたひとつの物差し 北村美帆子・29歳・中国
 2000年5月、私はポーランドの片田舎にいた。1冊の本が私を地球の裏側に導いてくれたのだ。そう、その本を読んでからちょうど10年の節目に当たっていた。
  英語の勉強に力を注いだ高校時代、教師から手渡された英語の小説が、エリー・ウィーゼル著の『夜』、その本だった。全100頁強の薄い本だったが、初めて読む英語の小説でもあり、また初めて体験するホロコーストの物語でもあった。だが、それ以上に詩的でありながら、どこか読み手の五感を攻撃してくる点で、それまで読んだ小説とは明かに異色を放っていた。
  語り手は12才にしてアウシュビッツに収容され、奇跡的に生還した著書自身である。当時、自分と年齢がそれほど変わらない少年が、天に向って「神は一体、何をしているんだ」と問いかける箇所に突き動かされた。神の存在の有無に疑惑を抱いているのではなく、「何もしない神」の存在に激昂したのである。その「神」とは超越的な存在であるかもしれないし、また、声をあげるべき時にあげず、このような残虐行為に対して見て見ぬふりをした「沈黙の人々」と読むこともできる。12才の少年をここまで老いさせたアウシュビッツという場所にいつか必ず行って自らの目で確かめようと決めたのはその時だ。その少年の亡霊に取り憑かれたかのように最後まで一気に読んだのを覚えている………本を読むというのはひょっとすると、自分が決して体験することのない他人の人生を一時共有させてもらうことではないだろうか。
  東欧の某都市からバスや電車を乗り継ぎ、10日ほどかけてアウシュビッツに辿り着いた。周辺地域には何もなく、その場所そのものが罰を受けているかのように、どことなくうなだれているような地域だった。アウシュビッツとは何か、自分の生活と離れた場所で行われた、とてつもなく非現実的な犯罪であるかのように捉えていたのだが、今は博物館となったこの大量殺戮工場を見学する内に、時より浮かんでは消える不思議な感情にとらわれた。それはこの犯罪そのものの体質が、いじめが肥大化したものであり、自分の中に被害者にも加害者にもなりうる「可能性」を見出したことだった。被害者であったなら、自分はアウシュビッツに辿りつく前に貨物列車の中で息絶えていたに違いない。私は死体になった自分を明かにそこに見ることができた。自分を被害者として想像するのは容易いことだった。だが、その時、自分を何よりも動揺させたのは、加害者になりうる自分をより鋭敏に感じとっていたことである。自分や自分の家族の命を危険にさらしてまでユダヤ人を守れると言い切れるだろうか。ユダヤ人が残していったものをこっそり私物化しないと言い切れるだろうか。答えは灰色に包まれていた。
  必然的に私はいじめにあった小学校時代を思い出していた。高学年に囲まれ、女子トイレに連れて行かれる時、自分の一番の親友と称していた女の子は助けを求めるどころか、顔を少しひきつらせながら、「バイバイ」と私に手を振ったのだ。以来、彼女を心で許したことは一度もなかった。次元は無論違うが、ユダヤ人が次々と捕らわれて行く時、それまで友人だと信じていた近所の人たちが彼等を罵って送り出したという。保身のために関わりを避けたのだ。その時、私は小学校時代のその友人が憎しみの対象ではなく、そのような役回りを演じなければならなかった哀れみの対象であることに気付かされたのだ。
  アウシュビッツで受けた衝撃は筆舌に尽くし難い。やはり百聞は一見にしかずであり、アウシュビッツから友人に出した葉書にはただ一言、「とにかくこの場所に来て、自分の目で見ないと何もわからない」とだけ書いて送った。帰国後、2週間ほど、眠りにつく直前に銃声が聞こえてくるという幻聴に悩まされた。しかしながら、1冊の本が私を異国まで連れて行ってくれ、そこでようやく私は過去のこだわりから解き放たれたのである。私はこの本が自分の考えを豊かにしてくれる物差しを与えてくれたように思えてならないのだ。
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