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書店のレジで本の代金を払う時、頭を下げて「ありがとうございます」と言う私に、店員は怪訝そうな顔をする。客の方から礼を言うのは確かに一般常識からすれば、おかしいかも知れないが、私は本を手に入れるたびに感謝の念を禁じ得ないのである。
この本を書いた著者や編集者はもちろんのこと、印刷や製本に係わった人、そして流通の関係者、多くの人々の手を経て今私の手の中にある。ありがたい。私がそういう気持ちになるのには訳がある。
あれはもう六十年も前のこと。太平洋戦争が終わった時、私は中学生であった。食べる物も着る物もろくになく、はだしで学校に通っていた時代、本屋に行っても進駐軍との会話の手引き書か大人向けの低俗な雑誌ぐらいしかなかった。
友達の間で、手に入った本をお互いに貸し借りして回し読みをしながら、わずかに活字の飢えをしのいでいた。そんなある時、私のところに回ってきたのが、「漱石の読書と鑑賞」という本であった。その中に出てきたのが伊藤左千夫の「野菊の墓」である。
「野菊の墓は名品です。自然で、淡白で、可哀想で、美しくて、野趣があって結構です。あんな小説なら何百ぺん読んでもよろしい」。漱石が伊藤左千夫にあてた手紙と記されてあった。
年上の民子を想う少年政夫の初々しくも、切々たる心情が淡々と書かれた文章に、激しく胸を打たれた。拭いても拭いても涙があふれて何度も洗面場に立って顔を洗わなければならなかった。
学校の勉強もそっちのけで、繰り返し繰り返し読んだ。友達から返却の催促があったが私はどうしても、この本を手放す気になれなかった。しかし、返さない訳にはいかぬ。友達に無理を言って、もう暫くの猶予をもらった。全文を書き写す決心をしたのである。
文具店のおばさんに事情を話したら、えらく感心して、役場に納める分の紙を少し横流ししてくれた。枚数を節約するために表裏両面を使うことにした。
ペンもインクもない当時のこと。父の使い古したガラスペン先を、細い篠竹を切ってきてはめ込み、空き瓶に綿を詰め、墨汁を入れて準備を整えた。
毎日学校から帰ってくると、こつこつと書き写していった。中指にペンだこができて赤く腫れた。包帯を巻いて必死に書き続けた。夏休みに入り、時間に余裕ができて能率が上がった。八月のなかば遂に写し終わった。借りていた本を友達に返しに行った。しびれを切らして返却を待っていた。彼も人から借りていたのである。
だが、全文を書き写したと聞いて彼は驚いた。そして、画き古した画用紙で表紙をつけてくれた。こうして「野菊の墓」の写本は学校の中で噂になり、友から友へと渡って行った。ところが、いつの間にやら行方不明になった。あれだけ苦労して書き写した本がどこに行ったか分からなくなったとは残念でならなかった。
還暦を過ぎた頃から、頻繁に同窓会が行なわれるようになった。そのたびに「野菊の墓」が話題になった。もう一度あれを見たいという声がしきりであった。お互いに馬齢を重ねて青春時代が恋しくなったのであろう。
今、書店に行けば「野菊の墓」は文庫本で三百円足らずで買える。しかし、あの写本は銭金の問題の物ではなく、我々の青春の貴重な思い出の代物である。
何年か経って、古希記念同窓会があった。その席上で一人の友が鞄から古びた封筒を取り出した。あの幻の「野菊の墓」であった。家を建て替えるため、荷物を整理していたら出てきたと言う。友人達の間では目に涙を浮かべて懐かしむ女性もいた。
紙は赤茶けて今にもぼろぼろになりそうであるが、文字はくっきりと六十年の昔のままであった。扇風機もなく、額の汗を拭いながら、蚊に食われ机にしがみついてガラスペンを走らせた少年の頃が鮮やかに甦ってくる。
どんな時代になっても、人間の心にとって本はなくてはならぬ物である。人生につきものの喜びや悲しみを教え、生きる道筋を指し示してくれる最良の師であり友。それが本である。今はそれがわずかな金額で簡単に買えるのである。
本代を払う時、「ありがとうございます」と頭を下げずにいられないのは、一冊の本を手に入れるために、あれだけ四苦八苦した頃のことが忘れられないからである。 |