協同組合人物略伝 【国内】
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| 1885年(明18)12月25日,高知市に生まれた。生家の複雑な事情から幼時は不遇のうちに育った。1903年(明36)東京郵便電信学校行政科を卒業,逓信省に入ったが,数年ののち,官吏生活をきらって退官,三菱倉庫会社に入社した。大正の初め大阪芦分倉庫の大爆発にあい,その跡始末ののち,同社を退社した。官吏生活と実業界の生活を通じて資本主義社会の矛盾を強く意識し,その改造を念願するに至った。1917年(大6),片岡直温(1859〜1934),平生釟三郎(1866〜1945)らの援助を得て企業立憲協会を組織し,機関誌『新組織』を発行した。翌年,事務所を東京府大島町の労働者街に移し,日曜労働講座,文化義塾などを開き,労働者教育に従事した。そのころ平沢計七(1889〜1923)らの純労働 者組合が成立し,1921年(大10)10月,岡本の協力を得て,労働問題講習会を開いた。この講習会において岡本が消費組合の設立を提唱し,純労働者組合を母体として,大島共働社を設立した。これがのちに労働者消費組合運動の中核,関東消費組合連盟に発展した。1926年(大15)岡本は消費組合運動から退いて,静岡県裾野町(旧駿東郡富岡村)の愛鷹山中に農村青年共働学校を開き,農村指導者教育に従事した。1934年(昭9)同校を解散,翌年,横浜市郊外に純真学園を開設して,共同組織の農場として経営した。1937年(昭12)軍部の後援で純真学園を三重県宇治山田市に移し,神都教学館と改めたが,終戦後神都教学館を民生館と改め,1950年(昭25)これを東京都に移し,彼の思想である『民生学論体系』の著作と,その教義の普及に専念した。このため世界語ボアーボムを考案した。晩年には号を普意識と称した。主著『民生学論体系』。1963年(昭38)10月14日没。(奥谷松治) |