協同組合人物略伝 【国内】
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| 1873年(明6)9月12日,奈良市水門町に生まれた。東京帝国大学法科大学政治学科,東京外国語学校仏語専修科卒業。法学博士。産業組合(産組)との関係は古くまた深いものがあり,平田東助(別項)が法制局長官から農商務大臣になったとき,これに従って農商務省参事官になり,主として立法のことに当たり,〈産業組合法〉(産組法)の制定には早くから関与した。1905年(明38)大日本産業組合中央会の創立とともに講師に嘱託され,ついで首席主事として主事会のリーダーをつとめた。そして1909年(明42),有働良夫(別項)が農商務省農務局農政課の技師として〈産組法〉の大改正に当たったとき,彼はこれに対する商工局方面からの異論を説得して改正法の成立に尽くし,その後産業組合中央会(産組中央会)の参事と なり,1920年(大9)には理事に選ばれた。1939年(昭14)3月,健康を害して理事を辞任したが,その間,常に堂々たる論旨の主張と公平な会務の運営で知られ,なかでも1936年(昭11)5月,志立鉄次郎(別項)会頭の引退による後任の産組中央会会頭問題で開かれた役員会において,千石興太郎(別項)らの推す有馬頼寧(別項)に反対して容易に譲らなかった話は有名である。また次期の会頭月田藤三郎(別項)のもとにあっては最も進歩的,積極的な意見をもってそのブレーン的な役割を果たしたともいわれている。彼はまた商工方面の官歴をもつため,とくに中小商工業者のための組合の発達に尽くし,当時最大の社会立法として実業界から反対もあった〈工場法〉を成立させたり,第1次世界大戦時代には〈戦時海上保険法〉〈 暴利取締令〉などの戦時法を制定して,その立法,労働政策では省内の第一人者であった。こうして1918年(大7),原敬内閣の成立を機に勇退するまで,いわゆる官僚派の立場から雑誌『産業組合』に執筆するなどの協力も惜しまなかった。しかし彼の産組観は,要するに平田と同じ日本的な産組の発達であって,彼が平田の名で執筆したといわれる『産業組合法要義』は,それを示す代表的なものとされている。他方,彼は1919年(大8)ベルサイユでの講和会議に政府代表の一員として出席して国際労働会議に関する立法に参加するなど,労働大衆のために尽くした功も大きい。1922年(大11),顧問として東京日日新聞社に入り,1925年(大14)には大阪毎日新聞の主幹となって言論界をリードし,1935年(昭10)その取締 役会長となって自ら大新聞の育成に当たった。1939年(昭14)11月20日没。 |