協同組合人物略伝 【国内
 
越智太兵衛おちたへえ
1882年(明15)11月26日,奈良県大和郡山市発志院町(旧添上郡治道村発志院)に生まれた。1902年(明35)郡山中学を卒業し,1911年(明44)2月,30歳で発志院信用組合をつくり,自宅に事務所をおいて自ら組合長になった。その前年から彼は部落の有志に1日1銭貯金を呼びかけ,30人の共鳴者とともにこれを実行した貯金のなかから,3円を第1回出資払込に充当して組合を設立したのがスタートであった。これが1919年(大8)には治道村全村にわたる165人の組合員をもつ組合にふくらみ,年を追って購買・利用(動力農機具の共同設備,組合診療所の経営,農業倉庫など)と事業面の拡大を図り,産業組合精神の実践普及に努めた。一方,1917年(大6)県信用組合連合会の創立とともに監事,理事,常務理事を歴任し,また1930年(昭5)県購買販売組合連合会の創立とともに,これにも理事となり,翌年にはこの両連合会の会長を兼任した。さらに1935年(昭10)両連合会の合併後も会長として就任,その間,1930年(昭5)の恐慌には,信用組合連合会の余裕金で産業銀行(現南都銀行に合併)の取付を救って県下財界の動揺を防ぎ,あるいは医療事業を加えて組合病院を開設するなどの実績を示し,奈良県産業組合の大御所的存在となった。中央においても1935年(昭10)全国購買組合連合会(全購連)の理事に,ついで1937年(昭12)には全購連大阪支所長に就任した。翌1938年(昭13)には産業組合中央金庫(産組中金)の理事に推されたが,これまでの兼職すべてをやめて産組中金の業務部長を担当した。1941年(昭16)には全国購買販売組合連合会の初代会長に就任し,翌年の衆議院選挙には推されて戦時下の衆議院議員になり,その後も全国農業経済会の会長,全国農業会の理事などを歴任したが,終戦後の農業会解体を機に,発志院信用組合以来40余年にわたる組合運動から引退した。その子楢治も戦後の奈良県経済農業協同組合連合会会長,全国購買農業協同組合連合会理事として活躍,父子2代の組合一家である。1961年(昭36)10月20日没。(竹村奈良一)


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