| ) 1884年(明17)1月6日,長野県茅野市(旧諏訪郡米沢村)に生まれた。諏訪中学を経て一高工科に入ったが,途中休学して農科に転じ,1910年(明43)東京帝国大学農科大学を卒業,さらに1914年(大3)法科大学政治科を卒業。農科大学時代の同級生に橋本伝左衛門,木村修三,有馬頼寧(別項)ら,一級下に那須皓(別項),加藤完治らがいた。農商務省に入り,農政課に配属され,産業組合との関係が始まる。農政課小作分室長として石黒忠篤(別項)農政課長とともに小作立法に取り組んだのち,1922年(大11)産業組合の主管課である農務課長に就任,産業組合中央金庫(産組中金)の設立に中心的役割を果たした。産組中金設立とともに参事として出向し,草創期の基礎固めに尽力した。農林省にあってはその後農政課長,米穀課長,蚕糸局長,農務局長,経済更生部長を経て1938年(昭13)次官に就任,翌1939年(昭14)退官。小作立法,産業組合の保護育成,農業保険制度,農業金融の改善充実,農産物の価格安定など農政の主要課題の企画立案に当たった。とりわけ,1932〜38年(昭7〜13)経済更生部長として,農業恐慌にあえぐ農村の再建のため農山漁村経済更生運動を指導し,小農経営を産業組合に結集して農業経営の組織化を唱導し,千石興太郎(別項)を指導者とする産業組合拡充運動と呼応して「協同組合主義農政」を推進した。1943年(昭18)中央農業会副会長,ひきつづき改組後の全国農業会副会長として1946年(昭21)まで,戦中・戦後の混乱期の協同組合組織の最高責任者として尽力した。1944年(昭19)には中央農業会から家の光協会を独立させ会長に就任,戦後は追放解除後の1951〜58年(昭26〜33)農林中央金庫監事,1955〜70年(昭30〜45)協同組合短期大学教授をつとめるなど,ときには監督者として,ときには指導的役員として生涯協同組合運動とかかわりをもった。著書は400点を超え,産組中金在職中に研究を始め,蚕糸局長時代に刊行した『農業金融論』(これによって東大から農学博士の学位を得た)のほか代表作として『農業保険の機能と組織』『農村副業問題』『産業組合論』『農業金融と農家負債整理』『産業組合金融』上・下,『産業組合法』などがある。1976年(昭51)8月1日没。(楠本雅弘) |