協同組合人物略伝 【国内
 
加納久宜かのうひさよし
1848年(嘉永1)3月19日,東京都墨田区(旧江戸本所五ツ目)に生まれ,17歳のとき上総一宮藩主加納家の養子となった。明治の王政復古に際して上京し,一時大学南校(のちの東大)に学んだが版籍奉還で一宮藩知事を命じられ,ついで廃藩置県で知事を免じられて文部省属となり,岩手県師範学校長,新潟県師範学校長を経て判事に転じ,地方裁判所所長,大審院検事などを歴任し,帝国議会開設とともに貴族院議員となった。1894年(明27)鹿児島県知事となり,綱紀の粛正をはじめ殖産,教育,衛生,交通,築港完成など最高の実績をあげた。在職7年の間に郡農会,県農会を系統的に組織し,県下各町村に農会の設置を促した。その系統農会を中心とする農事振興の結果,50万石の米産が一躍90万石に達する顕著な功績をあげた。1900年(明33)退官して東京・大森(旧入新井村)の旧居に帰った。ここで彼は学務委員となり教育の振興に努め,また地方自治の基礎を強化するため信用組合を設立して組合長となり,自宅を事務所にして夫人とともに運営に当たった。一方,彼は1902年(明35)全国農事会の幹事長に推されるや,日露戦争前後の農業生産の拡大のため農事改良を積極化し,活発な農政運動を展開し,1907年(明40)には貴衆両院議員の有志による農政研究会をつくって議会対策に備え,1910年(明43)の〈農会法〉改正法案の通過によって帝国農会が設立されると,その初代会長となった。さらに産業組合(産組)についても,品川弥二郎,平田東助(以上別項)の両先覚者に劣らぬ理解と熱意をもち,全国農事会の機関誌『中央農事報』には,すでに1904年(明37)1月号から産業組合欄を設けて組合の普及宣伝をしたり,全国を遊説して産組の普及を促進するなど,系統農会の産組育成事業の先頭に立った。そして日露の戦時下にあってとくにその重要性を感じ,産組の中央指導機関を全国農事会の方式に従って下から結成する目的で,『中央農事報』に全国産業組合役員協議会の招集を発表した。たまたま,平田東助,酒匂常明(別項)らにより大日本産業組合中央会の設立がすでに計画されており,彼はその副会頭に推されることとなった。しかし,全国産業組合役員協議会は予定どおり,入新井村信用組合と全国農事会の主催のもとに1905年(明38)5月10日から3日間,東京・赤坂三会堂で彼が座長となって開催され,これが後年の全国産業組合大会の始まりとなった。そして翌年の第2回協議会で彼の「産業組合中央金庫の設立を期する」動議は満場一致で採択された。彼は後年,旧藩地である千葉県長生郡一宮町の町民に望まれて同町長に就任すると交通,水利,植林から図書館,病院,幼稚園,人物養成,町内物産の品評会常設,街灯設置など14項目の町是を決めてその実現を期した。その町政は,農事改良や信用組合事業と町村自治との関係を実地に展開したものとして注目された。彼こそは実に実践躬行の真の組合人であり,先達であった。1919年(大8)2月26日没。(佐藤寛次)


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