| 1884年(明17)1月9日,東京都新宿区揚場町(旧牛込区)に生まれた。東京帝国大学法科大学を卒業して農商務省に勤務。1914年(大3)私費でヨーロッパに留学のため約1年間休職。帰国後農務局副業課長,農政課長を経て,1924年(大13)初代の小作課長となり,さらに農務局長となった。翌年,機構改革により農林省農務局長,ついで初代の蚕糸局長を経て,ふたたび農務局長となり,1931年(昭6)農林次官,そして1940年(昭15)第2次近衛文麿内閣の農林大臣となり,また1945年(昭20)鈴木貫太郎終戦内閣の農商務大臣になった。さらに政治面では,1943年(昭18)貴族院議員となり,戦後は参議院議員となって緑風会に所属し,議員総会議長などをつとめた。民間団体関係では,農林次官を退いて翌1935年(昭10),農村更生協会の会長となり,その翌々年には産業組合中央金庫(産組中金)理事長になっている。そのほか,農業報国連盟理事長,満洲移住協会理事長,日本農業研究所理事長,全国農業会会長などにもなった。彼は学生時代にトルストイ(別項)と二宮尊徳(別項)の思想に傾倒して,深くその影響を受けた。大学を出て司法官の道を期待する父の意に反して農商務省入りをしたのも「人が人を裁くことはできない」というトルストイの言葉を信じたからだといわれ,また「自分は百姓になることができなかったから,百姓の世話をすることを志して,今日に至っている」と語る彼の口癖は,まさしく彼の生涯の信条でもあった。そして,大正中期の小作争議頻発時代に農政課長となるや,まず,小作調査委員会の設置を手始めに,早くも小作調停法案や小作法案,〈自作農創設維持補助規則〉などの原案作成にかかり,あるいは農村の振興とその中心となる人材の養成をめざしてデンマークの国民高等学校にならい,茨城県友部(のち内原に移転)に日本国民高等学校を設立して自ら理事長となり,さらに昭和初期からの経済不況に加えて米価の下落により農村恐慌が深刻化するや,農林次官の彼は1932年(昭7)農山漁村経済更生運動の陣頭に立った。産業組合(産組)運動に対しては,農政課長時代にその育成と指導監督との職分の別を明らかにし,「自分はその指導監督の面に徹する」と当時の産業組合中央会(産組中央会)主事千石興太郎(別項)にいったとおり,その方針のもとに悳登代麿(別項)事務官とともに,産組指導に当たった。農務局長時代には補助金を出して産組中央会を援助し,大蔵省預金部から低利資金を出した際にも,産組にはほかより多くを融資させるなど,課長,局長,次官時代から産組中金理事長時代に至るまで,一貫して変わるところがなかった。彼はまた,第2次世界大戦後,インドで開かれた国連食糧農業機関(FAO)アジア極東地域会議に日本政府代表として出席,ひきつづき国際小農同盟の総会に招かれて渡米したり,日本人のブラジル移住50年祭に農業使節団団長として渡航したりして,国外の農民との接触も深かった。1960年(昭35)3月10日没。(小平権一) |