入選作品

ねこたちの夜

松山よしこ(まつやま・よしこ)・70歳・神奈川県

 六十歳で仕事をやめた時、まわりには誰もいなかったし、何もなかった。夫は早くに亡くなり、息子はひとり暮らしをしていた。
 毎日がお休みで……と喜んでいたのは、はじめの一週間だった。
 大型マンションの町には人があふれるほどいるのに、私の友だちはだれもいない。
 生活できる蓄えもできたし、新しくはないが故障のない体もここにある。けれども私はひとりでさびしかった。
 外に出るのが怖くてテレビがお友だち。家に閉じこもっていると感情がマヒしてくるのが自分でもわかる。なんだか蝉の抜けがらみたいだな、と自分でも情けないと思っていた。
 いま考えるとうつ状態だったのだと思う。
 そんな日々が続いていたある日、マンションの前の広場に市の移動図書館が、ワゴン車で来ていた。六階の窓から見ていると、ござの上にきれいな絵本がたくさん並んでいる。若いお母さんたちが笑顔で、子どもたちに話しかけながら本を選んでやっている。
 私くらいの高齢の男女も、本棚に手を伸ばして、本を選んでいるのが見える。
 もともと私は本が大好きだった。
 気がつくと、扉を開けて玄関を飛び出していた。きれいな表紙の絵本のところに向かった。その中の一冊を手に取る。
 『ねこたちの夜』ブルース・イングマン。
 ねこが夜そっと子どものベッドから抜け出す。ねこの学校へ行って勉強したり、その帰りに女の子と映画を見たり、ドッグレースを見たりして遊ぶ。そのあと、彼女をオートバイで家に送り届けて帰るというお話。
 読み終えると、おかしくてひとりで笑っていた。
 ねこは子どものころに家に何匹もいた。あのときも、ふしぎなことに、夜になると必ずねこがどこかへ出かけて行く。いつもどこへ行くのだろうかと、子ども心にふしぎだった。 
 その謎にみごと笑いで答えている。幼いときの問いが、こんな形で解けるなんて、絵本ってなんておもしろいんだろう。
 さっそく手続きをして絵本を借りる。私はその日から絵本のとりこになってしまった。
二週間に一度くる移動図書館を待っていられなくて、駅の大きな図書館に行った。
 図書館では、小さな子どもたちに混じって夢中で読んだ。
 遠ざかっていた活字も絵本だと文字が大きくて読みやすい。そしてきれいな絵が楽しめる。
 シンプルな文章だけれども、心の奥深くはいって来る文章。年を重ねてきた分だけ、想像が膨らむ広い世界。私は毎日絵本を読める幸せを感じた。目標の一年五百冊も達成していい気持ちだった。いつの間にか、私のうつ状態はどこかへ行ってしまっていた。
 そんなある日、知り合いの人から小学校の読み聞かせのボランティアの話が出た。
 「あなたは本がお好きだって聞いたけど、子どもたちに読み聞かせてはもらえないかしら。ひとり人が足りないのよ、お願い」
 「ええっ? よその子どもさんの前で本を読むなんて恐れ多い。そんなことできないです。それに年も年ですし」
 はじめは躊躇(ちゅうちょ)した。
 「むかし、子どもに本を読んでやったことのあるお母さんなら、だれにでもできるはずよ。みんなそこから出発しているの」
 そう言われて思い出すと、寝る前には数えきれないほど、息子に本を読んであげた。
 できるかもしれない。
 やってみますと返事をした。子どもたちが聞いてくれるなら、むかしを思い出して子どもたちに、いっぱい本を読んであげたい。楽しい本、ためになる本、おどろく本がきっといっぱいあるはずだ。
 はじめの日は『ねこたちの夜』を読むことに決めていた。私を絵本の世界に誘(いざな)ってくれた本である。きっと三年生も喜んでくれる。
 家で何回も何十回も練習した。教室に入って三十一人の子どもたちの前に立ったときは足が震えた。
 がんばって読み始めた。あちこちからくすくす笑いが聞こえてきた。良かった。これでいいんだ。という感触がもらえた。
 金曜日の朝、授業が始まる前の十分間。メンバーは、若いお母さんや私のような高齢者までさまざまだ。読み終わると、みんなが集まって、きょうの反省をしたり、次のクラスの確認をする。これも楽しい時間だ。
 次の週だった。かわいいメモが届いた。感動した時などに子どもたちが書いてくれるという感想。おもしろかった、読み方がうまいよ、いい本をありがとう、と書いてあった。
 それは、私にとって、亡き夫の恋文と同じくらいに大切な宝物である。
友だちも少しずつ増えている。