入選作品

風呂焚き読書

吉田セツ(よしだ・せつ)・84歳・福島県

 昭和の初めの頃、私たちの育った農家では、土間に土で作った料理用の「へっつい」という、かまどが三つ位どっしりと並んでいて、その土間続きに風呂場がありました。風呂は大きな木の桶でできていました。
 昭和六年生まれの私たちは、日支事変から引き続き、小学校四年生の時は米英との戦争も始まり、勇ましい軍歌のひびきの中、「欲しがりません、勝までは」を合言葉に、弱音を吐かない子供でした。
 四年生の終わり頃から、風呂を沸かすのは私の仕事となりました。体が小さかった私は両手にバケツを下げ、川から水を汲み風呂桶に運ぶのが大変でした。勿論、バケツいっぱいの水を運ぶのは無理で十回以上も往復しました。
 風呂の焚(た)き口は鉄でできていて、そこだけ四角に土間がくりぬいてありました。私はそこに腰かけ焚き始めます。たいていの農家では上等の薪などは使わず、杉の下枝を落としたものや、松の葉・木の根っこ・大豆を収穫した後の枯れたのまで燃やすのです。杉の枝や枯れ葉をかまどの中にポキポキ折って投げ入れると一瞬ボォーっと強く燃え、焚き口の前に坐っている私の顔まで熱くなります。しかし、油断はできず、絶えず小枝を投げ入れなければなりません。一時間以上も風呂がまの前に坐っていなければならず、友だちの中には、「風呂沸かしは嫌だなー」と文句を言う人もいました。でも、私は子ども心に仕事で疲れて帰る家の人たちに温かい風呂を沸かすのは当然だと思っていました。
 それに、五年生になってから、この風呂焚きの楽しみがふえたのです。五年生になった時、担任の先生が代わったのです。髙木喜代男先生。古武士を思わせるような風格の先生でした。眼光か鋭く、それはそれは厳しい先生でした。男の子たちは悪い事をすると大きな左手で平手打ちされていました。でも、授業熱心で六年生を卒業するまで、私たちは沢山のことを学びました。「田舎の学校だからって馬鹿にされねえように頑張れよ。子どもの時に脳みそにしっかり入った知識は一生もんだ。頑張れや」が口癖でした。
 歴史の時間が一番楽しみでした。古事記や日本書紀の中の神話に始まって、南北朝時代の事、源平合戦から明治維新に至るまで、沢山お話してくださいました。「本を読め。むずかしくっても何度も読め」とおっしゃるのですが、当時小さな村の学校に図書館などはなく、まして貧しい私の家には教科書以外の本など一冊もありません。「セツ子、読んでみっか、この本」と始めて先生が手渡してくださったのが、『源平(げんぺい)盛衰記(じょうすいき)』という本だったように覚えています。源氏と平家の戦いが歴史の時間に先生の話してくださった内容と重なっていて、夢中で読みました。読書の時間は風呂焚きの時です。薄暗い土間の小さな裸電灯の明かりの下ですが、杉の葉をかまに投げ入れると、ボォーっと私の周囲は明るくなって、細かい字もよく読めました。その頃から次第に戦争も激しくなり、夜は燈火管制とかといって電灯には黒い布をかけたりしていましたから、夜の読書などできませんでした。
 私にとって、この夕方の風呂を焚きながらの読書の時間は何と至福のひとときだったことか。幼い弟妹も居りましたが、風呂焚きの時は近寄らず一時間以上の楽しい時間となりました。母には「そんな暗い所で読んで目悪くすっぺ」と何度か注意されましたが、現在まで私の目は健在、眼鏡なしでも車の運転をしていますから、煙にむせりながらの読書の影響はなかったのでしょう。
 髙木先生からは、その後つぎつぎと本をお借りして読みました。小学校五、六年生の読む本を先生も持っていらっしゃらなかったのか、菊地寛とか芥川龍之介とか少々むずかしい本ばかりでした。ただ、活字を追っているだけの読書だったかもしれませんが、読書の楽しみを知った原体験でした。
 今年の十月、私は八十四歳となりました。木彫りの仏像、陶芸に洋裁、晴れた日は畑仕事と楽しみいっぱいの日々。近くの図書館には沢山の本、本。少々記憶力、理解力は衰えましたけど、読む楽しみは失せません。猫一匹との生活は誰にもじゃまされず、ゆったりとした気持ちで読書ができます。まだまだ読みたい本もいっぱいです。
 七十年も前、読書の楽しみを教えてくださった恩師の面影を偲(しの)びながら、改めて感謝の日々を送っています。スイッチ一つで風呂の湯が満たされる現在ですが、川から水を運び、薄暗い土間に坐して風呂焚きをした幼き日々。時には本を読むことに夢中になって火に近づき、髪の毛をチリチリと焦がしてしまった遠き日を思い起こしながら書きました。