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本が気付かせてくれた家族の絆 _読書エッセイ

優秀賞

本が気付かせてくれた家族の絆

北島和彦(きたじま・かずひこ)・岐阜県・42歳

「お父さん、お母さん、わたしカナダにホームステイしたい」
 突然娘が切り出したのは、忘れもしない三年前の夏、一学期の終業式の日だった。
当時娘は小学生。塾はおろか、授業で英語など本格的に習ってもいない十一歳の子供にそんな事が出来る訳がない。妻と私はそう決め込み、「何を寝ぼけた事を言ってるんだ」と言わんばかりに軽くあしらおうとした。
 何せまだ小学生である。大人なら幾らか片言の単語ぐらい理解している。けれど娘は日曜日がサンデーと言う事さえ知らない。しかし、そう我々夫婦がいくら説得しても、娘はパンフットを手放す事なく必死に訴え続けた。
 一時の子供の気の迷いと思い込んでいた私達も、彼女の真剣な眼差しに次第に本気で向き合い話すうちに概略が判ってきた。彼女が手にしたパンフレットは学校の掲示板に張ってあったもので、毎日気になり、終業式の日に先生に頼み込んで貰って来たらしい。けれど確かに対象年齢は小学生高学年からと記載はあるものの、全くの個人ホームステイで夏休み期間中、ステイ先の学校にさえ自らで通わなければならず、山間の過疎地の山村集落で今まで過ごしてきた彼女が、とてもこんな過酷な海外生活に対応出来るとは思えなかった。
しかし彼女は諦めなかった。何とか思いとどまらせようとする我々を尻目に、彼女は着々と申込み準備を開始し、とうとう我々親子は都市部で開催される説明会に赴く事となった。
「本当にこんな小さな田舎育ちの子が大丈夫でしょうか」
 開催事務局の方に尋ねると、「確かに今回の中では最年少ですが、後は本人の頑張り次第です」との答えが返ってきた。そしてそこで我々夫婦は初めて彼女が海外渡航を望んだ理由を知った。
『赤毛のアン』。もう随分前どころか、私が子供時分に買って貰った伝記を彼女は毎晩の就寝時に読み、空想を膨らませ、いつかこのアンの生地である北アメリカへ旅立ちたいと願うようになったそうだ。胸を張り、凛としてそう事務局の方の質問に答える彼女が親として初めて眩(まぶ)しく感じた。
 この光景を目の当たりにした我々夫婦は、彼女のホームステイを許可することとした。
 こうして短期間の間に彼女のホームステイの準備が始まった。いくら本人がやる気でも何せ十一歳の少女である。先方家族への不安やそれ以前に、無事にカナダまで辿り着けるかさえ親としては気が気でなかった。
 サンデーとマンデーの違いも解らぬ子だ。辞書も必要との事であったので、遠方の町の大型書店まで出向き、小学生向けの分厚い辞書を購入した。挿絵描写もふんだんに取り入れられた、いかにも子供向けの辞書だったが、少しでも本人の手助けになればと、夫婦で何時間も悩み選んだものだった。
「良いかい。向こうのお母さんたちが言っている事が解らなかったら、すぐにこれを見せて指で示して貰うんだよ。分かったね」
 そんな風に辞書の扱い方まで教える家族の不安を知ってか知らずか、本人がいかにも気楽に構えて淡々と準備を進めていく様に親として子の成長も感じた。出発日前日、荷物の最終確認を行うためスーツケースを開けると、我々が準備したいろいろな物の奥に、『赤毛のアン』とあの「分厚い辞書」が入っていた。
 こうして彼女はにこやかに手を振り空港から旅立って行った。親の毎日の心配をよそにステイ期間中の数週間、彼女から一切の連絡は無かった。頼りの無いのは無事な証拠と言ったものだが、毎日が生きた心地がしなかった。
 そして帰国日、彼女は日焼けした顔に白い歯を見せて元気に戻って来た。そしてあれこれいろいろなみやげ話を聞かせてくれた。
 後日判った事だが、今日のご時世である。現地で何人かのホームステイをしている中学・高校生と知り合ったが、全員が自動翻訳機能付きの電子辞書でコミュニケーションを取っていて、こんな分厚い紙の辞書を持っている子なんて自分一人しかいなかったらしい。けれど「プリーズ」と言って辞書を広げると、ステイ先の家族は懇切丁寧に指をさし、意思疎通を図ってくれたそうだ。そして日本語版の『赤毛のアン』を見せたらとても喜んでくれたと、妻に語ったとの事だった。「お父さんには辞書の事は言わなくていいよ」と妻に彼女は語ったそうだが、彼女なりに田舎者の両親が町まで出かけて辞書を買う様子を見て、電子辞書の件は気を使ってくれたと思うと、恥ずかしい気持ちの反面、正直嬉しく涙が出た。
 あれから三年、現在中学生の彼女は、将来海外で人の役に立つ仕事に就く事を夢見て、独学で英語の勉強をしている。しかしその間、電子辞書を買って欲しいとは決して言わない。
 彼女の手元に今でもいつも、あの「分厚い辞書」と『赤毛のアン』が置かれている。電子化による利便性が向上する中、それに替えられない大切な何かがある事を、私達家族は今回この二冊の書籍に思い知らされた気がした。

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