入選作品

父が孫へ残したもの

テルホ 梓(てるほ・あずさ)・34歳・フィンランド

 母からのメールは突然だった。父が心臓の手術をするから、子供たちと一緒に帰って来てほしい。受け取ったのは、父の主術の2週間前くらいだった。ヨーロッパで2歳の息子と4歳になったばかりの娘のシングルマザーをしている私にとって、幼子2人と長時間の飛行機での旅は相当困難なのは解っていた。
 私自身も心筋炎で半年前に入院していた。再検査を受けてすぐの事だったので戸惑いもあった。幸い検査結果に問題はなかったが、不安は消えないままだった。それでも私が帰国を決めたのには理由があった。父の体はもう悪くしかならない。そんな父に私はまだ、息子を一度も会わせられずにいた。後悔したくはなかった。覚悟を決めて飛行機に乗った。
 手術には間に合わなかったが、私たちが日本に到着する数日前に父は退院していた。空港に迎えに来ていた両親は大分老けたように見えた。父がそこにいる事に思わず涙が出た。けっして仲のよい親子ではなかった。それでも率直な気持ちが出た。父に息子を会わせられないかもしれないと思い、苦しかった、怖かったと泣きながら伝えた。父は少し照れていた。泣きそうにも見えた。それを隠すように、荷物を持つよと言ったが丁寧に断った。元気そうに振る舞っているのであろう。でも、どれだけ痩せたのか。父が、とても小さく見えた。私の足にしがみついて離れない子供たちに、母が一冊の絵本を差し出した。娘が駆け寄り、息子が後に続いた。2人の目が輝き、緊張は解けたようだった。車へ向かう間、子供たちは本の取り合いをし、私と母は右手で辛そうに胸を掴む父の仕草に不安が増した。大丈夫と父は言ったが、そうではない事を認めていないのは父だけだった。昼前には家に着いた。旅の疲れか、お昼ご飯を食べないまま子供たちはすぐに寝てしまった。私も一緒に1時間程度横になった。目を覚ました時、娘はまだ寝ていたが息子がいなかった。リビングから父と息子の声がした。不器用で見栄っ張りな父が、日本語がまだよく解らない息子に本を読んでいた。息子は嬉しそうに本の中の絵を指差しては何か言っていた。父もまた嬉しそうに息子の話を聞いていた。一見噛み合っていない2人だったが、とても楽しそうだった。父は私に気付くと、恥ずかしそうに部屋を出て行ってしまった。その後、父が私の前で子供たちに本を読む事はなかった。
 ある夜の事、子供たちとお風呂から出ると、父はすでに布団に入っていた。母は、父はもう長くないと私に告げた。この時、どう答えるべきだったのか、それは今でも解らない。
 日本滞在残り1日、私たちは最後の買い物に出かけた。まずはおもちゃ屋、次に本屋。おもちゃ屋では、思いがけない光景を目にした。娘が父の手を握っていた。いつの間に仲良くなったのか。本屋では、子供たちよりも私の方が夢中になった。初めて目にする本たちはもちろん素敵で魅力的だったが、私は幼い頃に自分が読んだ本を探した。大人になった今でも心に残る物語たちに、息子や娘にも触れてほしかった。充実した最後の日はこうして終わった。帰る日、空港では父は体調が悪いと言い、見送らずに車へ戻って行った。この時の父の思いを、私は後になって知った。
 離陸後、飛行機の中でふと息子が言った。「昔々、あるところに」それを聞いた娘が続けた。「お爺さんとお婆さんがいました」。父は、私の見ていない所で子供たちに本を読んでいた。何度も繰り返し読み続けられたその物語は、言葉の壁を越えて子供たちの心にちゃんと届いていた。父は感じていたのだろうか、あの空港での別れが最後になると。父の後ろ姿が思い浮かび、私は泣いた。父が植えた言葉の種は、子供たちの中で力強く根付いていた。それから3ヶ月後、父は亡くなった。私は、本を読めなくなった。こんなに悲しく、涙が出るとは。後悔や悔しさに包まれる中、父の私を呼ぶ声が頭の中から離れない。父の葬儀の時、私の国は深夜0時を過ぎていた。喪服を着た私は、月を見ていた。子供たちの「昔々」という声が父の声と共に、体の中で響き続けた。
 本を読めなくなった私を救ったのは母だった。私はいろいろ理由をつけて母に来てもらった。でも本心はただ、残された母が恋しかった。私の代わりに本を読む母の声がした。「昔々、あるところに」。聞きなれたその物語に喜ぶ子供たちの声が母の声と重なり、まるで歌のように生き生きと家中に広がった。生きる事、話す事、語る事、語り継ぐ事。私の心の枯れかけた言葉の花が、再び輝き出した瞬間だった。その日の夜、私は久しぶりにあの本を手に取った。父に、お帰りと言われた気がした。母の帰国の日、寂しそうに見送る子供たちに私は言った。「今度はママが読んであげるね、ジージの昔々」。笑顔になった子供たちの手を、しっかりと握った。母の顔にも安堵が見えた。
 お父さん、聞こえていますか? 引き継がれた物語、そして子供たちの声が。