入選作品

くもの糸

井川 實(いがわ・まこと)・75歳・東京都

 七歳のとき戦争が終わって、私は母に連れられて三人の兄妹弟とともに疎開先の瀬戸内海の小島を発って、母の故郷である阪神間の芦屋市へ引き揚げた。戦時中に父を失い、二度も空襲で家を焼かれていたので、私たち一家は着の身着のまま無一文で祖母の家へ転がり込んだのだった。だから次の日地元の小学校へ転入したときも、靴も無くて、ゴムぞうりを履いて行った。しかも陽に焼けて猿のように真っ黒で四国弁丸出しの私は、その日から全校生の注目を浴び、いじめの対象になった。毎日「こじき」とか「猿」とか「ばい菌」とののしられて大勢に追い回された。
 しかし私は毎日帰り道の小川で汚された顔や手を洗って、知らん顔をして家へ帰った。もし話したら、朝早くから担ぎ屋をして懸命に働き始めていた母が悲しむと思ったし、幼い弟や妹に泣き顔は見せられなかったからだ。
 けれども、祖母は私をじっと見ていた。学校から帰って、一歩も家から出ないで、勉強するふりをしていた私に、祖母は一冊の本を買ってきてくれた。
「この本は面白いから、読んでごらん」
 と言われてページを開いてみて、たちまち私はその本に夢中になった。
 それは芥川龍之介著『蜘蛛の糸』を少年向けにやさしく書き直して挿絵を入れた粗末な冊子だったが、私にとってはそれが生まれて初めて読む自分の本だった。
 先ず私は地獄で苦しむカンダタという主人公の男に心を惹かれた。人を殺したり家に火をつけたりした悪人ではあったが、逃げ道の無い血の池の中でもだえ苦しむ有様は、自分の毎日の姿にそっくりだと思った。
 カンダタはくもを踏み潰そうとしたのに助けてやったおかげで、お釈迦様にくもの糸を垂らしてもらえたが、自分はどうだろう?
 残念ながら誰かにほめられるようなことをした覚えは無かった。……とすれば、ぼくには地獄を抜け出すくもの糸は下りてこないのだろうか……? それに、ほんとうにお釈迦様はいるのだろうか? どこに……?
 考えていると悲しくなって泣きそうになって困った。が、まもなく私にもくもの糸が下りてきたのだった。
 その第一は、祖母からの依頼だった。
「悪いけど、その本、読んでくれへん……?」
 祖母は遠慮がちに私に頼んだ。
「もう眼が悪うて、字が見えへんねん」
 私は最初は自信がなくて断ろうと思ったが、眼科の病院が無くなって苦しんでいる祖母はカンダタや自分と同じだと気がついて、懸命に読むことにした。たどたどしく、読み間違えたり、つっかえたりして、なんとか終わりまで読んだ。そして、恐る恐る祖母の顔を盗み見ると……驚いたことに、祖母はうっすらと目に涙をためて、うれしそうに微笑んでいたのである!
「ああ、何年ぶりやろ? くもの糸……!」
 それは、私にとっても思いもかけない喜びだった。私は生まれて初めて「自分も満更捨てたものではない」と思えたのだった。
 それから祖母は毎日私の帰りを待っていて、読書をせがんでくれた。『くもの糸』も何度も読んだが、新しい本もつぎつぎに買ってくれたし、図書館で本を借りることも教えてくれて、そのうえ読書のほうびにおやつもくれたので、私は一気に読書好きの少年になってしまって、学校でのいじめの辛さも忘れてしまうほどだった。
 そしてある日、国語の時間、とつぜん先生が本を読み始めたので、聴いていると、どうやらそれは『くもの糸』の話だった。
 先生は、カンダタがくもの糸につかまって天国へ登って行くところまで読んで、パタリと本を閉じて、
「さあ、この話の続きはどうなるだろうか?」
 と言って、みんなの顔を見廻された。
 だれも答える生徒がいなかったので、おずおずと私が答えた。すると、先生のお顔も教室の雰囲気もさっと変わった。
「ほう! じゃあ、この話を書いた人は?」
「あくたがわりゅうのすけです」
 と私が答えると、まるで奇跡を見たような目でみんなが私を見ているのがわかった。
 それは、私にとっては思いもしなかった「くもの糸」だった。なぜなら、その話はすぐに全校に行き渡ったらしく、その日から私をののしる生徒がいなくなったからである。まさに地獄から天国へ登ったような気持ちだった。
 祖母と私の読書会は、その後祖母の目が全快するまで五年ほど続いた。
 祖母と私の共通の愛読書は、『ロビンソン・クルーソー』と『岩窟王』だったが、それらとともに『くもの糸』は何度も繰り返して読んだ。
 私が高三になった年祖母は還らぬ人になった。私は祖母の棺の中へ『くもの糸』を入れた。