入選作品

産まれるときも

廣瀬郁美(ひろせ・いくみ)・35歳・東京都

 突然、じわじわとした痛みがこみあげてきて、にんじんを切っていた手を止めた。庖丁をそっと置くと、恐る恐るおなかに手を置く。
「ふーっ、ふーっ」
 あせる気持ちをおさえて深く深呼吸すると、波が引くように痛みは去っていった。身に覚えがある痛みだ。まちがいない。たぶん、もうすぐ産まれる。はちきれそうにふくらんだ臨月のおなかを見つめながら、そう確信した。
「ママ、だいじょうぶ?」
 プラレールで遊んでいた三歳の息子が、いつのまにか近くに立っていた。心配そうな顔でこちらを見上げている。
「だいじょうぶだよ。赤ちゃんが産まれるときは、こんなふうにおなかが痛くなるの。ママちょっと横になるから、遊んでてね」
 久々の陣痛にパニックになりながら、笑顔を取りつくろった。入院の準備はしてあるし、病院は歩いてすぐだ。痛みの間隔が十分を切ったら電話をしよう。時限爆弾をかかえているみたいに、ゆっくりと動いた。ふとんに横になったとたん、再び痛みが襲ってくる。
「ふーっ、ふーっ」
 胎児のように体を丸めて痛みを逃す。まだ始まったばかりだというのに、イメージしていたより、ずっとせっぱつまっていた。じわりと汗がにじむ。こんな状態で、最後まで息子のめんどうが見られるだろうか……。
「ママ、だっこして……」
 ただならぬ雰囲気を察し、息子がふとんにもぐりこんできた。
「だいじょうぶだからね」
 自分に言い聞かせるようにつぶやいた。少し早いけど、病院に行ってしまおうか。そう思ったけれど、すぐに思い直した。長男を産んだとき、二十時間もかかったその時間の大半を、慣れない病室ですごした。今回は、できるだけリラックスできる場所にいたい。
「今日はもう寝ちゃおうか」
 不安そうな息子が不憫でそうたずねると、まじめな顔でこくんとうなずいて言った。
「じゃあ、寝る前の本、なんにする?」
「えっ、本? 読むの?」
 私はびっくりして、聞き返した。正直、本なんて読んでいる余裕はない……。
「今日はがまんして。ママ、おなか痛いから」
「えー、なんで……」
 顔をゆがめた息子は、わーっと泣きだした。尋常ならざる雰囲気を察して、はりつめていたのだろう。その泣き顔を見て、ふと、この子を産んだときのことを思い出した。
「産まれたよ。男の子だよ」
 胸の上に置かれた赤ちゃんは、おなかの中に入っていたとは思えないくらい、ずっしりと重く感じられた。そのあとすぐ、看護師さんに「お母さん」と呼ばれ、とまどったっけ。それから三か月、検診で参加者全員に、一冊の本を渡されたのだ。それが、『じゃあじゃあびりびり』だった。
「0歳の赤ちゃんでも、読んであげるとちゃんとわかるんですよ」
 保健師さんに言われたその言葉を真正面から受け止めた私は、生後三か月の息子に、その本を読み聞かせた。今も続く私と息子の本をめぐる旅は、そこから始まった。
 やがて、じっと絵を見つめるようになり、お座りをしてページをめくるようになった。抑揚をつけると笑うようになったころ、私自身、一緒に本を開く時間が楽しいと感じられるようになった。それからは、図書館に通い、ふたりでいろいろな本を選んだ。毎日毎日読んだ。体調が悪くてつらいときも、癇癪起こされて顔すら見たくないときも、父が死んで本なんて気分じゃないときも「読んで」と言われれば、断れなくてページを開いた。いつしか、息子と本を読んでいるときが、一日の中で一番リラックスできる時間になっていた。そう、どんなときだって、ふたりで本を読んできた。ならば、今まさに、命が産まれようとしているこの瞬間も、私は息子と本を読もう。そう思った。
「わかった、本読もうね。なんにする?」
 そう言うと、ぱっとふとんを出ていった息子は、小さな本を持って戻ってきた。固い表情のまま、そっと差し出してくる。
「『ピーターラビットのおはなし』ね。あるところに、四ひきの小さなうさぎがいました。名前はフロプシーに、モプシーに、カトンテールに、ピーターといいました」
 いたずらうさぎの物語を、おなかに手を当てながら読んだ。陣痛は徐々に強くなっていたけれど、心と体はリラックスしていた。
「産まれておいで。あなたにもいっぱい本を読んであげる」
 ピーターの冒険談を読みながら、そんなことを考えていた。
 それから二時間もしないうちに産まれてきた娘は、もうすぐ二歳になる。お兄ちゃんにそっくりな顔で、今夜も本を読む私のひざにちょこんと座っている。