入選作品

録音図書との出会い

國本久美子・45歳・香川県

 座右に本。私の日常の中に当たり前に存在していた読書。今は「聴書」と呼ぶべき録音図書が大きな存在になっている。
 今から十年ほど前、自分の目が少しずつ見えづらくなってきた。三人の子どもたちもまだ小さく、日々の生活に一生懸命だった。同じ季節がめぐって来るたびに見えづらさを自覚した。徐々に視力低下と視野狭窄が進み、現在は自分のペースで日常生活をおくっている。
 当時、幼稚園年長だった次女は、絵本が大好きだった。私は、夜寝る前に必ず絵本の読み聞かせをしていた。多少見えづらかったが私も楽しんで読んでいたころだ。何冊読んでも納得せず、足をバタバタさせて怒るのだ。そしてまた何冊かの本を抱えて私に持ってくる。私は娘が満足のいくまで読んだ。最後は根競べのように。そんな娘も小学校に上がると私の読み聞かせを卒業した。それから三年、末息子が同じ年長児に成長したころ、私の目は夜の読み聞かせをするのが困難になっていた。それでもなんとか読んであげたい。部屋の電気と枕灯の二重の光を頼りに、たどたどしく読んだ。時に、絵の中に文字が隠れてしまい、文字を見失ったりした。そんなある日、息子が私に言った。「ぼくが読もうか?」。
 私ははっとした。息子は見ていた。わかっていた。私は思わず子どものように泣いてしまった。うれしかった。そして、少しだけ切なかった。それからは息子が私に読み聞かせをしてくれるようになった。息子の声を聴きながら何度先に寝てしまったことだろう。幸せな母親である。

 私が録音図書と出会ったのは、今から一年ほど前である。今までできていたことができなくなる。そんなことが増えてきた。読書もそのひとつである。このままでは私は止まってしまう。焦燥感が募るばかりで動けなかった私であったが、今年の一月、ようやく前に進もうと決め、県の福祉センターの門をたたいた。当初は点字を習得しようと意気込んでいたにもかかわらず、なんと、録音図書に魅せられてしまった。大きな出会いの瞬間といっても過言ではない。諦めていた読書。もう好きな本は読めないと思っていた私にとって、それは一筋の光のように思えた。読めなくても、見えなくても、聴くことができる。これからいっぱい本が読める。まず何の本を読もう。こんなにワクワクした気持ちになったのは久しぶりだ。それからというもの私は忙しくなった。読みたい本を選び、録音図書を借りて自分の携帯プレーヤーに入れる。それを携えて家事をする。楽しい時間である。雨の日や曇りの日、私の目がより見えづらくても家の中で十分明るく感じるのだ。一度諦めたことであろうと未来はわからない。形を変えて叶うこともあるのだ。録音図書はまさに不可能を再び可能にしてくれた。
 録音図書を聴いていると、しばし言葉の意味がわからず一旦停止することがある。耳から入ってきた言葉を瞬時に漢字に変換しながら聴いている。これは無意識にやっているのだが、時に知らない熟語も出てくる。聴き過ごすこともあれば、真面目に調べることもある。「聴書」ならではの作業である。目で文字を追う読書と、耳で言葉を拾う聴書は何が違うのか。映像を伴わないこと、そして想像することにおいては同じだと私は思う。ひとつ挙げるとすれば、読書は本の表紙や挿絵を楽しむことができるということ。だから、特に印象深かった本は、後に本屋さんで単行本を探して手に持ってみる。こんなに分厚い本だったのかと、何だかうれしくなる。
 私のように読書が困難になった方々に録音図書の存在を知ってほしいと思う。ぐーんと世界が広がるような気がするからだ。自分の目で本が読めなくなっても自分の耳で聴いて理解し感じることができる。録音図書のおかげである。
「お母さん、最近録音図書にはまってるね」。聴き始めて少し経ったころ、長女が笑顔で言った。今は娘もはっきり理解しているだろう。録音図書が私にとってかけがえのないものであり、永いお付き合いになるだろうことを。改めて、録音図書との出会いに感謝したい。座右に録音図書。