入選作品

背中

込山絵美子・49歳・千葉県

 なんだか寝付けなくて、ほうっとひとつだけ小さくため息をついてみた。でも目の前の壁はぴくりともしない。夫の背中の壁だ。
 今に始まったことでもない。本好きの夫が珍しく早く帰っても、さっさと背中を見せて本を読むのはいつものこと。結婚して24年。今更ラブラブな期待があるでもなし、すれ違い夫婦をすっかり受け入れた私にとって、それは特に気にするようなことではないはずだった。けれど、何でだろう、今夜はちょっと切ない。
 帰り際の同僚の言葉のせいかもしれない。仲良しの彼女は、今日が結婚記念日なのだそうだ。「今夜はデートなの」と、はにかむような笑みを残して改札口に消えた姿が、瞼の裏でずっとゴロゴロしているのだ。なんだか目が瞑れなくて、仕方ないから夫の背中を見続ける。
 オレンジ色に淡く燈っている枕元の読書灯が夫の向こう側を静かに照らしている。その下で、夫は熱い眼差しで活字を追い続けているのだろう。いつまでそうしているつもりだろうか。背中の壁のこちら側はひっそりと暗くて、まぶしくなんてないはずなのに、眠ることができない。身動ぎせずにはいられずに、体を上に向けてみた。やっぱり壁は動かない。
 今頃、同僚は何をしているだろう。またちらりと気になった。そういえば、うちもそろそろ結婚記念日だ。暗く考えるのは趣味じゃない。せいぜい楽しいことでも考えようと、新婚の頃に久しぶりに思いをめぐらせてみた。
 それで思い出した。夫がベッドで背を向けて本を読む癖はその頃からもう既に始まっていたのだ。だけど、あの頃の私は、この壁をよくよじ登ったっけ。彼と読んでいる本との間に迷いもなく割り込んで、そして、括弧書きだけを読んであげるねとか、ページをめくってあげるねとか……。
 何だか気恥ずかしい限りの思い出がボロボロこぼれてきたけれど、よく考えれば彼にとっては大迷惑な話だったろうなと思う。きっと読んだ本の中味はちっとも頭に入ってなかったろうに。だけど、いつも少しだけ困った顔をしながら、それでも決して私を腕から追い出すことはしないでくれた。新婚だから当たり前といえば当たり前なのだけれど……。
 甘い記憶に後押しされたのか、ふいにムクムクッと悪戯心がわいてきた。もう一度、この壁をよじ登ったら、彼はどんな顔をするだろうか。急によじ登ってびっくりさせてやりたい。
 布団からこっそり腕を抜き出した。それから目の前の壁に指をそうっとそうっと伸ばし、あと少しで届きそうという時。いきなり彼が本を置いた。思わず息を呑んだ。ドキドキした。中途半端に伸ばした指先が少し震えている。気付かれただろうか。
 だが、彼はあちらを向いたそのままで、腕を枕元に伸ばして別の本を取り、ページを開いて、そしてまたあっという間に本の世界に入ってしまった。何事もなかったように壁がまた高くそこに聳え立っている。
 ばかみたい。こんなになる程、今更何を期待したんだろう。ドクンドクンという音が部屋中に聞えてしまいそうな程、心臓が大きく波打っていた。伸ばした指先は冷えきっているのに、背中にはうっすら汗までかいている。
 苦い思いを、止めていた息と一緒にこっそり吐き出した時だった。
「眠れないの?」
 小さく彼が言って、再び壁が動いた。飛び上がりたいのを必死でこらえ、慌てて寝た振りをする。瞼の向こうに彼の視線を感じた。長い長い長い数秒。するとふっと彼の気配が動いて私の手をしまい、肩までそっと布団を引き上げた。
 やっと薄目を開けた時には、目の前にはまた、大きな背中が静かに広がっていた。
 いいや。今はこれで。冷えきっていた指先がほんわりとあったかい。壁によじ登るのは、また眠れない夜がめぐってくる時までとっておこう。その時彼はいったいどんな顔をするんだろう。読みたい本ができた時みたいにちょっとわくわくした。それから薄目のままで大好きな背中を見つめながら、すぐに私は眠りに落ちた。