入選作品

吉田先生

坂本ユミ子・54歳・兵庫県

 私には忘れられない先生がいる。小学校三、四年生の時、担任だった吉田先生。母よりもずっと年上で、声を荒げて叱ることはなかったが、威厳のある女の先生だった。いつもこわい顔をしていたので、クラスのお調子者の男の子も先生の前ではふざけることは無かった。
 その頃、私はクラスにいるかいないかわからない、目立たない生徒だった。成績は悪かった。通信簿は五段階評価の2と3ばかりだった。
 毎回、通信簿の備考欄に小さい字で、はみ出すほどのコメントがびっしりと書かれていた。当時、一クラス五十人近くの生徒がいた。先生は目立たない私をよく見ていた。
 いつも一人でいる。ぼんやりしている。話さない。忘れ物が多い―多くの注意事項の後に毎回必ず「本が好き、作文上手」と書かれていた。その一文で母も私も救われた。
「ユミ子は本が好きだから、作文上手なんだね」
 母は他のことにはふれず、ほめてくれた。
 母は「勉強しなさい」と私に一度も言ったことがなかったが、時おり心配そうに聞いた。
「学校は楽しい? 友だちはいる?」
 明るく活発な二人の姉と比べて、大人しく引っ込み思案な末っ子の私を母は心配していた。わが家は母子家庭だった。そのせいで末っ子が暗い子になったのではと、母は気に病んでいたようだ。
「うん、いるよ。楽しいよ」
 そう答えて少し胸が痛んだ。半分嘘で半分本当だったからだ。友だちはいなかった。でも学校は楽しかった。学校には本がたくさんあった。休み時間に学級文庫の前に座り込んで本を読むのが楽しみだった。
 ある日のことだった。終わりの会の後、教室を出る前に私はいつものように先生の所へ行った。先生はいつも終わりの会の後、しばらく教室にいた。先生に「さよなら」を言って帰るのが習慣になっていた。
 「太田さんはどうして、いつも先生に『さよなら』を言いに来るのですか?」
聞かれたことがあったが、どうしてか分からなかった。たぶん、いつもこわい顔をしている先生がその時は笑顔で「さようなら」と言ってくれるのが嬉しかったのだろう。
「先生、さようなら」
「さようなら。あっ、ちょっと待って!」
 先生は私を呼び止めた。
「太田さん、図書係をやってみませんか? 図書室の先生がお手伝いしてくれる生徒を探しているそうです」
 何事にも引っ込み思案だったが、私は図書係を引き受けた。図書室は大好きで、よく行って本を借りていた。
 図書係は忙しかった。本を整理したり貸し出しカードを作ったり、貸し出しや返却の手続きをしたり。せっかく本に囲まれているのに、本を読む暇がなかった。
 一緒に図書係をしていたのは六年生のお姉さんで、優しく親切に教えてくれた。全てが初めてのことで楽しかった。口下手で引っ込み思案な私だったが、図書室に来る人たちにはスラスラと話が出来た。同級生もよく本を借りに来た。
「太田さんって、こんなにしゃべるんだ。転校してきた時、話しかけても本ばっかり読んでいて、なにも話してくれなかった。さびしかったよ」
 同級生の小林さんに言われて胸が痛んだ。本が好きだけど、本ばっかり読んでいてはダメだと気が付いた。本を通じて友だちもポツポツ出来た。小林さんは一番の友だちになった。
 吉田先生は時おり図書室にやって来た。私の様子を見に来ていたのかもしれない。
「太田さん、司書みたいですね」
「先生、司書ってなんですか?」
「本の知識がある人のことです。試験に受かると司書の資格が持てます。図書館で働く人はたいてい持っています」
 むつかしそうだけど、司書の資格を取って図書館で働いてみたいと思った。家に帰って母に話すと、喜んでくれた。
「夢が出来てよかったね。吉田先生はいい先生だね」

 通信簿の備考欄は相変わらず吉田先生のコメントがびっしりだったが、注意事項は減っていた。そして、いつもの最後の一文「本が好き、作文上手」の後に「図書係がんばっています」が書き加えられていた。