入選作品

八年目の返事

加藤宣彦・83歳・東京都

教え子の一人から思いがけず手紙が来た。 
「私は八年前に先生の高校に入学したのに不登校になりました。ある日、先生から、〈あなたの時計で、一歩ずつ進みなさい。いつまでも待っているからね〉というお手紙と一緒に一冊の本が送られてきました。
 お手紙を読みながらポロポロ涙がこぼれましたが、その時は学校にも行かれず、お返事も書けませんでした。あれからずっと引きこもり状態でしたが、やっと 自分の時計で歩き始めたのでご返事を書きます。直子」と、書かれていた。

 私は、小中学校時代に不登校を経験した生徒を積極的に受け入れている私立高校の校長として、たくさんの不登校生と向き合ってきた。
 不登校にはさまざまな背景がある。百の不登校には百の理由があると言われるが、彼らに共通しているのは、「皆が学校に行っているのに、学校に行かれない 自分はダメな人間なのだ」という自己否定感が強いことである。そういう彼らに自信を持たせ、自己肯定感を取り戻すためにはいかにすべきか。
 私が試みてきたのは、時期を見て、彼らに一冊の本を送ることである。
 不登校になった子どもたちは、最初のうちは、学校に行かれないことへの罪悪感、勉強の遅れを気にする焦燥感等で、心身症に陥り読書する心の余裕はない。
 しかし、「学校に行かなければ」という強迫観念が薄められ、ある種のあきらめからくる落ちつきが見られるようになると、とりあえず、平穏な日常が訪れてくる。
 私が本を送るのは安定期と呼ばれるこの時期である。
 事前に家族から、子どもが興味や関心を持ってきたこと、趣味や特技などの情報を聞き取り、さらに、彼らが不登校になった背景も考えながら、送る本を選択する。
 それは、河合隼雄の『こころの処方箋』であったり、恩田陸の『夜のピクニック』であったり、詩の好きな子には、高村光太郎や萩原朔太郎の詩集を送ったこともある。
 ジュール・ヴェルヌの『八十日間世界一周』も旧くて新しい人気のある一冊である。
 私が、八年前、直子に送ったのは、ミヒャエル・エンデの『モモ』であった。
『モモ』は、子どもたちの世界から「時間」と「仲間」を奪っていく「灰色の紳士たち」を一人の少女「モモ」がやっつけるという、ファンタジックな童話である。
 作者のエンデは「子どもたちの世界から、『時間』を奪えば、子どもたちの暮しはやせ細るのです」と語り、子どもたちから盗んだ時間を返すように警告している。
「私はモモになりたかったんだわ」
 直子は『モモ』を読み終わってつぶやいた。
 名門と言われる有名私立高校に進学させたいという両親の期待に応えて、彼女は小学校の頃から塾通いを始めた。
 しかし、中学生になり、周りの友だちが次第に力をつけてきのを意識した彼女の胸のうちにあせりと不安な気持ちが芽生えてきた。
「もっと頑張らなくちゃ」、「私の努力が足りないんだわ」と、良い子の彼女は、自分だけを責め、今まで以上に睡眠時間を削ってがむしゃらに勉強し、トイレに入る際も参考書を手放さなかったという。
 秋―、あと半年だと思うと、受験に向けての自信よりも、不安のほうが彼女の胸に広がってきた。
「落ちたらどうしよう」、「もうだめだ」。
 泣きながら登校していた彼女は、ある朝、登校しようと玄関を出たところで身体が硬直し、そのまま、不登校に陥ってしまった。
 そうした過去を引きずって私の高校に入学してきた彼女は、両親の期待を裏切って有名校に入れなかった自責の念で、ふたたび、不登校になってしまった。
 みの虫のように自室に引きこもってしまった彼女に、私が送った『モモ』は、
「自分の時間をどうするかは自分できめなくちゃいけないんだよ」と語りかけた。
 それから八年、ゆっくり自分の時計で歩き始めた彼女は、八年ぶりに私に手紙の返事を書いた。

「先生、私は今、パティシエを目指して輝いています。いつか夢を叶え、私の焼いたケーキを先生に贈ります」という八年目の返事に胸を熱くし、ゆっくりとその日を待とうと思っている。