入選作品

一つの卓袱(ちゃぶ)台

栗波昭文・63歳・福井県

 家にある卓袱台は、傷だらけでしかも古ぼけている。
 しかし、私は、この四角い卓袱台に愛着を持っていて、そばに置いてあるだけで、なぜか、心が落ち着くのである。また、いつもそれを使って物を書いている。今日は、父の法事の案内状を認めているところである。
 この卓袱台は、当然食卓用であり、昭和三十四年の春まで家族六人がこれで食事をしていた。一番下の弟は、まだ一歳であった。
 私は、昭和二十八年に小学校へ入学している。本好きな母は、それを機に外から遊んで帰ってくる私を呼び止め、
「ここにきてー」
といって卓袱台の横に座らせた。母が本の読み聞かせをするようになったのである。アンデルセン物語を一日、一話ずつ読んでくれた。
 後年、『はだかの王様』を読んだあと、私が、アハハ、王様は暑がりなんだ、と叫んだといって、母は大笑いをした。本はイソップ物語や日本童話集、昔話などいろいろ変っていったが、三年ほど続いたように覚えている。
 小学校の高学年になると専らマンガ本や探偵物になったが、読むのはこの卓袱台だった。
 私が中学校に入ると妹や弟らの体格も大きくなり、広めの食卓を買った。卓袱台は不要になりそうになったが、すぐに私専用の勉強机として利用された。それは校長が四月の朝礼でリンゴ箱の活用について話をしてくれたからである。リンゴ箱を三、四個並べ、その上に板を敷くと立派な学習机になる。また、左右に並べ、その上に卓袱台などを置くとイスを使う机になる。自分の机を持って勉学に励むように、というような内容であった。
 日本経済が高度成長期に入ったころである。
 私は、さっそく近所の八百屋からリンゴ箱を二つもらってきて、その上に卓袱台を乗せた。イスに腰かけ、卓袱台に手を置くとなぜか感激し、そのにわかテーブル机で勉強するのが楽しくなってきたのを思い出す。
 さらにその年の秋に、何の風の吹き回しかしらないが、父が世界名作集を買ってきたのである。三十冊ぐらいはあったように思う。
「少しずつ読むと頭にいいらしい」
といって、卓袱台の上にどんと積んでいった。
 私は暇ができると、その卓袱台で真新しい本を広げ、読書に勤しんだ。特にヘディンの
『彷徨える湖』を面白く読んだ記憶がある。
 高校に入ると、家を少し増築して、子供の勉強部屋を造った。机は、いわゆる引出しの付いた学習机に変った。リンゴ箱は取り払われ、卓袱台は処分される運命になったが、とりあえず、納屋の隅に置かれた。小物類が無造作に積まれ、そのような状態が三十年余続き、卓袱台のことはすっかり忘れていた。
 父は、七十歳近くになったころから地元の公民館長をしていた。ある日、貸してあった歴史事典を取りに父の部屋に入ると驚いてしまった。あの卓袱台が、いつの間にか部屋の中央に置かれていたのである。私は、
「おー、懐かしい!」
といって卓袱台をしげしげと眺めた。
 父は、土木事業が専門で昔から文芸書の類は読まなかったが、なぜかその卓袱台の上には、太宰治の本と絵本が五、六冊載っていた。
 私は、思わず笑ってしまい、部屋に戻ってきた父に、
「何で今ごろ文学の本を?」
と聞いたら、公民館講座の挨拶のネタ探しと孫の読み聞かせのためだという。まったくの付け焼刃だな、とからかうと頭に手をやり、
「この歳になってからの文学もいいな。七十の手習い………」
とおどけてみせた。
 こうして長い間、忘れられていた卓袱台は、父の書見台となって復活したのである。
 それから十三年ほど父が他界するまでその役目を果たした。何と、父の部屋には五段の本箱が置かれ、文芸書で一杯になっていた。
 それからあとは、その卓袱台を私の書斎に運んできた。私も退職し、人権擁護委員や保護司、自治会役員の仕事をするようになると細々した書き物が増えてきた。大きな机もあるが、寒くなると座って書くのが楽になり、この卓袱台を重宝するようになったのである。手元に置くと便利な資料台にもなる。
 勿論、読書もこの台だ。新刊本を毎月十冊近く買っているが読書時間の半分以上を書棚に入っている本の再読にあてるようにした。
 それぞれの本を手にとるたびに、その本を買ったころの家族風景や仕事のこと、自分の心模様が自然と蘇り、懐かしくなってくる。
 時々、卓袱台に付いている思いあたる傷に手をあてがい、撫でてみるのである。
 卓袱台との付き合いも、母親の読み聞かせから数えると、六十年近く経過した勘定になる。これは我が家の一つの歴史である。