入選作品

おさななじみ

宮﨑みちる・45歳・千葉県

学生時代、私は個別指導塾でアルバイトをしていた。
 生徒たちは一人一人壁で仕切られた席に座っており、一時間に三人の生徒の席を回って指導する。個別指導だからこそ、それぞれの能力に合った細やかな学習ができると言うものの、中には指導に困る生徒もいた。
 小学四年生の青木さんは早くから塾に来て、席に着くとすぐに寝てしまう。授業時間になっても起きないし、起きたところでこちらの言うことをまったく聞き 入れなかった。算数はまだしも、国語となると教えるどころではない。テキストに載っている文章を読みもしないで、解答欄に意味不明な言葉を書きなぐった。 頬の丸いあどけない顔ながらいつも怒っているような表情で、最初は手に負えないと思ったが、あまりの頑なその反発心にいじらしささえ感じるようになった。
 せめて彼女の表情が明るくなればとの思いから、私はテキストに沿った学習を断念してできるだけ身近な話題で話しかけることにした。とは言うものの、十年 も前の小学生が今どきの小学生に話を合わせようとするのは、結構気を遣うことだった。下手をすれば親しみどころか、見下されるおそれがある。
 果たして青木さんの仏頂面は、なかなか変わらなかった。半ば空しさを感じながらも、眠そうな青木さんに向かって親しみを込めて話しかけ続けた。
 そんなある日のこと。
「私、いとこの面倒見てるから、大変なんだ」
 突然、青木さんが吐き出すように言った。あまりにも唐突に話し始めたのでちょっと驚いたが、私はこのときとばかり話を何とがつなごうと必死だった。
「へぇ、えらいな。どうやって面倒見るの?」
と聞くと、青木さんはすかさず答えた。
「絵本を読んであげるの」
「なるほど絵本か。どんな本?」
「『ぐるんぱ』とかぁ・・・」
「え、『ぐるんぱのようちえん』?」
 久しぶりに聞いた絵本の題名に、私は懐かしさが込み上げてきた。いったい頭のどこにしまってあったのか、一頁一頁の絵が次々と目の前に浮かんできた。
「私も大好きだったな、その絵本。ぐるんぱ、大きなケーキ作っちゃうんだよね」
 何だか嬉しくなって思わず私が言うと、
「違う、ビスケットだよ」
と、青木さんに指摘された。
「手袋も大きすぎて、怒られるんだよね」
「手袋じゃなくて、靴!」
 いつのまにか、青木さんが笑みを浮かべていた。ふと私はおさななじみに会ったような気分になった。こんなに歳の差があっておさななじみと言うのもおこが ましいが、きっと同じ本を読んで育った仲というのは、大人も子供も本を読んだ頃の気持ちに戻って親しみを分かち合えるものなのだろう。
 その後しばらく、毎回絵本の話で盛りあがった。他にもお互いに知っている本があったが私はうろ覚えで、いつも「違う!」と笑いながら正された。
 青木さんはだんだんに表情が明るくなり、自分からも話すようになった。それはまるで小さな心の窓が開いたようだった。その窓から少しずつ、彼女の日常生活が垣間見えた。
 青木さんは、学校から帰るとお父さんが夜迎えに来るまで親戚の家で過ごしていた。叔母さんに怒られるからと言って、遊びにも行かずに夕飯の支度の手伝いや、いとこたちの子守をしているのだった。
 やがて青木さんは、勉強にもやる気を見せた。授業の始まる前から国語のテキストを読み問題を解くだけでなく、自分から感想まで言う。その豊かな感受性には驚いた。
 毎回、私は青木さんの成長ぶりを応援できることが楽しみだった。
 ところがある日突然、青木さんは塾を辞めてしまった。
「お父さんが、辞めろって」
 それまでいつもと変わりなく授業を受けていた青木さんが、帰り際にぽつりと言った。
「そう。元気でね。本、たくさん読むんだよ」
 去って行く後ろ姿に、私はそう言うことしかできなった。青木さんは、前を向いたままこっくりと頷いた。  それ以来、青木さんと会ったことはない。でも今、彼女が情緒豊かでしっかりした大人の女性になっていると私は確信している。
『ぐるんぱのようちえん』は相変わらず読み継がれているようで、本屋の店先で見かけるたびに懐かしく、また青木さんとの繋がりを感じてどこかほっとする。
 そして、本を通じて次の世代の子供たちともまた『おさななじみ』になれると思うと、何だか心強い気持ちが湧いてくる。